天上界へ行くための基準は、たった2つです。
死を迎える一歩手前までに刻んだプラスの「観い」の累計が、マイナスの「観い」の累計よりも1つでも多いことと、多くの人をよろこばせること。この2つのみです。
どれだけ立派なことをやり遂げたとしても、素晴らしい芸術作品を作りあげたとしても、2つの条件が満たされないのであれば、天上界への道は閉ざされることになります。逆に、この条件さえ満たされれば、どんな仕事をしていようと、他人からどう思われていようと、いっさい関係がありません。だから、歴史に名を残した偉人ばかりが天上界に位置するわけではないのです。
実際のところ、天上界に位置する生命体は、数の上では、名声を博した人物よりも無名人の方が圧倒的に多いのです。
たとえば、あなたの近所で90歳になっても元気はつらつと生き、死にざまも大往生という人がいるならば、その人は天上界へ行ったとみて間違いないでしょう。例を挙げると、鹿児島県の徳之島で平凡に暮らし、120歳の天授をまっとうされた泉重千代さんは天上界の2階にいます。なにごとにもくよくよすることなく、のんきに生ききることができれば、天上界への最低条件は満たされることになります。目立って有名になる必要などどこにもありません。どんな仕事をしていようとも、人によろこびの「観い」を向けることはできます。家庭の主婦であっても、わが子を人間完成に導くことができるならば、それだけで立派に天上界への資格は得られます。なんらかの形で、世の人の人間完成のお手伝いに貢献できればよいのです。職業にかかわらず、この2つの条件を満たしさえすればよいのです。
人のために生きているときにほとばしり出るよろこびの観いは、自然と周囲の人に伝わっていきます。それを見た誰かが「あなたのようになりたい」と思ってくれたなら、その人を人間完成に向かわせるきっかけを与えたことになります。そのことと、名声や地位とはなんの関係もありません。有名人よりむしろ、無名人のほうがよほど天上界へ行きやすい環境にあるのです。
現代に住む私たちと異なり、大自然とともに生きていた太古の人々は、その死後当たり前に天上界へと進んでいました。ところが今日では、天上界へ進むことのできる人は日々減っています。ただし、急激に減ったのはなにも、その条件自体が昔と比べて難しくなったからではありません。生命体の修行の場として地球が誕生して以来、大自然の法則は少しも変わっていません。変わったのは、私たちの生き方です。自分を中心に損得勘定をはじくことが、いつからか当たり前となってしまったのです。他を犠牲にしてでも自分の欲求を満たそうとする社会の構造自体が、天上界への扉を狭き門にしているのです。
お金、異性、地位、権力……、それらはいずれも、人生を豊かにするためのただの道具にすぎないにもかかわらず、人は執拗にそれらを握りしめようとこだわります。それらを欲し、手に入れたら入れたで手放すまいと必死になります。豊かさがかえって仇となり、天上界への道を阻んでいます。政治家や芸能人が天上界へなかなか行けないのは、こうした世俗の誘惑が多い環境に置かれているからです。
政治家や芸能人のみならず、比較的高い地位にいる人間であれば、世俗の誘惑に惑わされる危険性をもっています。まして自分ばかりではなく、他の人々に影響を与える立場にいる人であれば、その責任はより重くのしかかってきます。
たとえば、会社を預かる社長です。社長は地上界においては、尊敬に値する名誉ある地位と見なされます。しかしそれだけではありません。自然の法則の観点から見れば、社長は多くの人間の人生を預かっている重要なポジションにあります。社員をよろこびに導くのか、苦へ導くのかは、社長の力量にかかっていると言えるでしょう。
だから、社長たるものは、絶対に自分のために人生を使ってはいけないことを自覚する必要があります。また逆に言えば、自分のために絶対に人生を使ってはいけない使命を帯びた人が、社長職に就いているということなのです。人生には偶然などなく、他の人よりも何倍も人のために生きなければならない人が社長に就いているのです。前述の渋沢栄一は、そのよきお手本だと言えます。