◇著者の実体験

《実記》天との出会いで劇変した私の人生

著者である私がなぜこの真理を知り、わが身をもって体得することができたのか。それは次々と降りかかってくる問題に悩み苦しんだあげく自殺するしかないというところにまで追い込まれた時期があったからこそです。
ここにその実体験を記します。

①幼年期

私は昭和25年に大阪府堺市で生まれました。姉2人、弟1人の4人きょうだいの長男でした。島根県出身の父親は、高校を卒業後、すでに堺市で働いていた兄2人を頼って堺市に出てきて、足袋を作る会社に勤めました。若い頃は営業でバリバリ働き、日本国内を飛び回っていました。

父が兵庫県神戸市に住んでいた母と結婚したのは、昭和14年でした。しかし、結婚して2年後、四国の愛媛県宇和島で営業をしているときに、仕事の無理から結核を患うことになります。戦前に結核になれば療養しかなく、それでも亡くなっていく人が多くいる時代でした。宇和島での療養生活で父が出会ったのは、今もよく知られている健康法で、それが功を奏し、父は2年で結核が完治しました。

母は長女を出産し、その後、父の会社の本社がある堺市に戻ってきて、次女、私、弟を出産しました。父が熱心に行っていたその健康法を、家族は皆、結核を克服したのだからと信じて、実践するようになりました。そのおかげか、家族は大病することはありませんでしたし、92歳で天寿をまっとうするまで父が病気で寝ている姿を見たことがありませんでした。

健康面への配慮から事務職に転じた父は、食事も朝・昼・夜と野菜中心の食事を心がけていたので、昼休みは徒歩10分の会社から自宅に戻って食事をし、ほぼ毎日定時には帰宅し、家族と一緒に食事をする毎日を送っていました。

主食は、お米に麦を混ぜた、いわゆる麦ごはんでした。私は、友だちが白米ごはんを食べているのがうらやましく、白米だけのおにぎりや巻寿司を作ってもらえる運動会や遠足の日がとても楽しみでした。

父は、結核完治後は仕事で出世することよりも健康管理を重んじていたため、生活は楽ではなく、母は生活費を切り詰めるのに必死でした。小学生の頃の洋服はといえば、母の手縫い、冬には母の手編みのセーターで、服を買ってもらったことはありませんでした。セーターは、小さくなったり古くなったりしても、ほどいては編み直すことも多く、母は寒い季節のために子ども4人分のセーターを編んでいました。私は、母親の苦労も知らず、市販の洋服を着ている友だちをいつもうらやましく思ったものです。

当時の私は、父が元気でいてくれることをありがたいとも思わず、家族や生活を守る親の気持ちを理解することもなく、会社での地位の低い父を恥じていました。

②学業期

私たち家族と同じ市内に住んでいた父の2人の兄のうち、長兄が市の水道局長として市長の次の位置にあり、次兄が造船所を経営し、私たちとは違い裕福な生活をしていました。私と同い年の従兄弟が子ども用自転車に乗っているのをうらやんでは、大きくなったら必ず社長(=お金持ち)になるぞと思っていました。

大人の世界のことは、幼い私に理解できるわけはなく、「勉強して立派な人間になりや」という母親の期待に応えたい思いいっぱいに、小学校のときから一生懸命勉強をしました。学校の成績がいいと母親は近所でも鼻高々で、それが母親の生きがいであることを子ども心に理解していたので、母親をよろこばすためにますます勉強しました。

戦後の復興期で国が発展途上にあり、学歴がものを言うようになっていた私の子ども時代は、母も、社会の流れに乗り遅れまいとするかのように教育熱心でした。

中学時代には、家の収入状況から考えて、高校には行けても大学には行けないと思っていました。そこで、特に親に相談したわけではありませんでしたが、目標は5年制の高等専門学校にしていました。しかし、高校進学の相談を両親としたときに、「国立だったら大学に行ってもええで」と母から言われ、天にも昇る気持ちで目標をある進学高校に定め、合格しました。

さらに、その進学高校から京都大学工学部に入学しました。家からは通える距離ではなかったので、京都に下宿し2年間の大学院を含めて6年間大学に通いました。

その間の下宿代、生活費は家庭教師のアルバイト代でまかないました。京都では大学生が多く、家庭教師代が安いので、週に1度、授業のない土・日曜日は堺市の実家に帰り、3件〜4件の家庭教師をし、月曜日に京都の下宿に戻るという生活を6年間続けました。

大学での下宿生活は、生まれて初めての独り暮らしでしたので、親の目の届かない開放感があり、また、それまで友だち付き合いよりも勉強を優先していた私の生活は、遊びも勉強も充実したものになりました。

③就職・結婚

大学院を卒業して就職した大手化学会社の所在地は、アルミの精錬工場のある香川県坂出市でした。勤務してから知ったのですが、坂出市は戦死した母方の祖父の出身地でした。祖父は貧しい農家の出身でしたが、丸亀城主の子孫の方からの奨学資金のおかげで神戸の商船学校に入学でき、卒業後、日本郵船で働き、大型客船の機関長になり世界を周っていました。しかし、太平洋戦争で大型客船から転用した輸送船に乗船していたとき、米国の潜水艦の魚雷を受けて戦死しました。

就職してから知ったのですが、私が働いていた工場の独身寮から、歩いて10分のところに戦死した祖父の生家とお墓がありました。会社が休みの日にはお墓参りをさせてもらい、それまで遠い人と感じていた祖父が身近な人になりました。香川県の工場では上司や同僚にも恵まれ、退職するまでの楽しい時間を過ごすことができました。自分自身、上を目指して仕事をし、それなりの評価を頂いていたのですが、6年間務めた会社を退職しました。理由は、オイルショックの影響で会社がアルミ精錬部門からの撤退を決めていたことと、妻の父親の公認会計士という業種に左右されない職業に憧れたからです。

理系と文系という違いもあって、公認会計士試験合格まで3年かかりましたが、34歳から公認会計士としての道を歩み始めました。このときには、自分の小さい頃からの人生の目標だった「社会的な地位を得て経済的にも豊かな生活をする」を達成したと満足していました。

大手化学会社に就職して2年後の27歳で結婚し、私が公認会計士になったときにはすでに2人の子どもがいましたが、2人とも男の子でした。私は子どもは2人で十分と思っていましたが、妻がどうしても女の子が欲しかったのです。

そこで、私と妻は男の子と女の子の産み分け法が書かれた本を調べたり、食事内容を変えたりと女の子を産むための努力をしました。

しかし、産まれたのは男の子でした。

あまりにも精神的ショックが大きかったからか、妻はその事実を受け入れることができませんでした。そのため、私を含めて周りの人間が、意図的に男の子を生むようにしたと思い込み、被害妄想になりました。また、母乳は飲ませますが、それ以外は3男の世話をしなくなり、妻の母親に世話をしてもらうことになりました。

被害妄想はますます強くなり、何の関係もない近所にいきなり怒鳴りこんだり、私の両親や姉、弟にまで怒りの電話をかけるようになりました。

そこで、やむを得ず強制的に入院させました。両親や姉、弟は電話番号を変えてしまい、妻が電話をかけることもできなくなりました。しかし同時に私との連絡もとれなくなり、それ以降は両親や姉、弟とは疎遠になりました。

妻は、入院後は薬の力でおとなしくなりました。1ヶ月ほど入院し、3人の子どもにどうしても会いたいというので、子どもを思う気持ちにほだされて退院させましたが、退院後も被害妄想は続いたので通院を続けました。

この頃、私の持病であった腰痛が悪化し、40歳頃から重い物が持てなくなり、車の運転もできなくなりました。仕事柄出張が多かったのですが、電車に乗っても座席に座れなくなり、新幹線でもずっと立ちっぱなしで移動していました。出張先や事務所でのデスクワークもすぐに疲れるので、長くは続けられず定時には帰宅し、帰宅後は横たわっているだけという日々が続きました。公認会計士として書類を持ち歩く機会が多いのですが、重い物を持てないので後輩に持ってもらうことが多くありました。

3男は妻の母親に可愛がられましたが、妻からは世話をされず愛されることがなく、私も腰痛で相手をしてやることができなかったためか、小学4年生から不登校になりました。無理やり学校に連れて行っても、「頭が痛い、お腹が痛い」と言って家に帰ってくるのです。そのうち自室にこもりまったく学校に行かなくなりました。

私は悩みに悩み、それでも、必死に解決策を求め続けました。

妻が少しでもよくならないかと、多くの精神科クリニックに相談に行きましたが、薬を変えるだけでした。妻が癒されるようにと私が小学生の頃に通っていたキリスト教会に通った時期もありました。また、3男に学校に行ってほしいため、学校の近くに引っ越したり、不登校に関する相談会やセミナーがあれば通いました。

私の腰痛は病院に行っても良くならないので、さまざまな民間療法を渡り歩き、最終的に一番いいと思えた民間療法を週2日受けていましたが、根治には程遠いものでした。

家族や自分自身の問題に対し、ありとあらゆる対処法を講じた結果、その時々で、これらの問題が一時的に少し良くなったかなと思う時期もありました。しかし、時間がたつとその希望も消え失せ、やはり堂々巡りとなる始末。かえって私の苦しみは増す一方でした。

新しい対処策が思い浮かぶと、その瞬間は希望が湧き元気になるのですが、ダメなことがわかると以前より不安が増してきます。その繰り返しでどんどん不安は増長していき、解決策を考えることさえ苦痛になり絶望感だけが膨らんできました。

「この先どうなるのだろう」と、朝起きるのが苦しく、このまま目覚めなければどれほど楽だろうと毎日思っていました。妻を病院まで送り、公認会計士事務所に向かう駅で電車を待っていると、いつまでこんな毎日が続くのかという絶望感から、いっそ線路に飛び込んでこの苦しさから逃れたいという誘惑にかられることもよくありました。

④天との出会い

平成7年1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災が兵庫県全域を襲いました。当時は兵庫県西宮市に住んでおり、震度7の揺れに見舞われました。眠っていたらドーンという音と激しい振動とともに身体を布団ごと持ち上げられ畳にたたきつけられました。

私が眠っていた両脇には書棚があり、すべてが私の身体に向かって倒れこみ、本という本が降りかかってきました。真っ暗でしかも布団の中でしたので、家が倒れ天井が落ちてきたのかと思いました。恐る恐る布団から手を出すと、手が本に触れたので少し安心し、一冊一冊手探りで本を取り除いていき、やっと布団から出ることができました。布団から出てよく見ると、重い本棚どうしが折り重なり、間に空洞ができたことで私は潰されずにすみました。

布団から出るとすぐに大声で名前を呼んで家族の安否を確認しました。妻、長男、3男は返事がありました。しかし、次男の返事がないのです。「わっ、やられたか」と思い、次男のいる部屋に飛び込むと、この一大事に何事もなかったかのようにぐっすり眠っていました。心底ほっとしました。

私の家はプレハブ造りだったので倒れませんでしたが、家の中のものはすべて倒れていました。外へ出るとガスの匂いがし、瓦屋根の二階建ての家はほとんど全壊していました。後でわかったことですが、近所だけで100名ほど(被災全域では6434名)が亡くなりました。

このときは、家族が崩壊しかけているこの時期に、なぜ追い打ちをかけるように大地震に遭わなければならないのかと、自分にばかり不幸が降りかかってくると思えるこの世の不条理を恨みました。しかしその翌月、大阪駅前を歩いていると、何が入っているのかわからない封筒を配っている人がいました。ふだんはそういうものは受け取らないのですが、そのときはなぜか無意識に受け取っていました。中に何が入っているのかを確認せずしばらく放置していたのですが、数日後、何の気なしに紙袋の中身を見ると、それは1冊の本でした。

その中にはこう書かれていました。

「人間とは本来、健康そのもの、億万長者そのもの、よろこびそのものの表現体として生まれついたのである。

しかし、その『よろこびの表現体』という本来の姿をはばむのが当人の生きざまである。

頭に振り回されて苦を刻んでしまうという生きざまなのだ。

誰も病気になりたくて生まれてきたわけではないし、貧乏になりたくて生まれてきたわけではない。

誰も不真面目に生きようとする人などいない。

だが、気がついてみると、いつのまにか病気を引き寄せ、倒産を引き寄せ、災難を引き寄せている自分がいる。

人間はよろこびの表現体である。生まれながらにして、健康、繁栄、すべてのものを備えている。頭を取りなさい。そのとき、すべてのよろこびがきあがってくる」

その内容に強い反発を覚えたものです。今、不幸ばかりが降りかかってくる自分が、健康そのもの、よろこびそのものであるわけがないからです。

私は、人生をいい加減なものとは思っていませんでした。だからこそ子どもの頃からまじめに一生懸命勉強をしてきましたし、社会的な地位を得て経済的にも豊かな生活をして、幸福な一生を終えるのを目標にして努力をしてきました。両親は、私たち4人の子どもに教育をつけてくれ、立派な社会人になるようにと一生懸命育ててくれたので、恩返しをしたいと思ってやってきました。

でも、なぜか理由はわかりませんが、妻の病気、子どもの不登校、自分の腰痛などといった問題を引き寄せていたのです。

あらゆる解決策を探し求めてきましたが、なすすべもなく、これからの人生がどうなるのかという不安が増すばかりでした。それどころか死の誘惑にすらとりつかれていたので、初めは戸惑いを覚えたもののその本の内容に引き込まれていきました。ただ、「頭を取る」という聞き慣れない言葉の意味を尋ねると、「人生、二度目の誕生をすることですよ」と教えてくれました。

気がつけば素直に頭を取っていました。妻に声をかけると「私も」と言ったので、私と妻の2人は一緒に頭を取りました。

いよいよ、私の家族は180度変わる転機を迎えたのです。

⑤最大の転機

それまでの私は、起きがけに腰の痛みを伴い、今日もこの痛みを我慢しなければならないのかという苛立ちとともに一日を迎えました。それに加え妻が近所に迷惑をかけたらどうしよう、苦情を言われるのはいやだな、子どもを起こして学校へ連れて行ってもお腹が痛いと言って帰ってきたらどうしよう、と次から次へと不安が出てきて止まりませんでした。

それが、頭を取った後は不思議と、朝を迎えた瞬間、腰の痛みがあるにもかかわらず「なんとかなるだろう」と思うのです。妻のこともなんとかなるだろう、子どもが学校に行かなくてもいいや、生きてくれていさえすればそれだけで嬉しいと、勝手にそんな感情が込み上げてくるのです。事態が改善したわけではないから悩みがあるはずなのに、それが気にならないし、なぜだか理由もなくよろこびが込み上げきて、それが一日中続くのです。

今日は誰に会えるのか楽しみでしかたがないのです。

なぜ、こんなにもよろこびが込み上げてくるのかが不思議でした。でも、実際に込み上げてくるのです。嬉しくて、なぜかワクワク、ドキドキするのです。「人間にはこんなにもよろこびが詰まっているのだ」ということを発見した瞬間でもありました。

変わったということは、自分自身よりも周りの人のほうがよく気づくものです。頭を取った後は、同僚や後輩から「木村、なんか、明るくなったけど、なんかあったんか」「木村さん、えらい元気になりはったけど、どうしたんですか」などと言われました。

また不思議なことに、妻はあれほど3男のことに無関心で世話をしなかったのに、頭を取ってからは「男の子でも私の大事な子や」と言って可愛がりだし世話をするようになったのです。私と妻が変わると、あれほど学校に行くのをいやがり部屋に閉じこもっていた3男が、学校に通い出したのです。

そして、痛くて動けない原因であり、将来は車椅子生活を覚悟していた私の腰痛は、治ってほしいと思っている間は全然よくならなかったのに、頭を取って、必ず治るとなぜだか思えるようになってからは、民間療法に通うのをやめたのに、どんどんよくなり、2〜3年かかりましたが完治したのです。

かつて街中でふと手にした本に書いてあった通り、人間はよろこびの表現体であり、頭を取れば、生まれながらに備えている健康、繁栄、すべてのものが、よろこびとともにいてくるということを体得しました。

こうも思います。自分自身に悩み苦しみが強くあっても、あきらめずに生きていたからこそ、この真理と出会うチャンスが与えられたのではないかと。

「頭を取った」のは実に26年前ですが、大自然の法則に沿って生きることによって、今でも変わらず、いやそれ以上によろこびを感じる生活を繰り返しています。一時は疎遠になっていた姉や弟とも当時以上の深い交流ができ、今に至っています。父は92歳のとき、カラオケで自分の好きな歌の1番を歌い終えた直後、急に意識を失い数時間後に亡くなりました。母は、昨年103歳で眠るように亡くなりました。両親ともに大往生ともいう亡くなり方で、一切苦しみを感じなかったと思いますし、残された家族も悲しみをあまり感じることがありませんでした。

ひとえに、今生において私にもたらされた天との出会いに感謝するばかりです。