◇1.生きているからには役割がある

目に見える生と死の区別は人間の妄想

そもそも生と死という区別は、もともと人間が頭の中で作り出したものにすぎません。

大自然の摂理からすれば、生も死もありません。生きている今であろうと、死んでからであろうと、私たちの本質が変わるわけではありません。変わるのは私たちの外見の姿だけです。

たとえば私たちは、生い茂っている草木を見て生きていると感じ、枯れ果てた姿を見ては死んだと信じています。

でもそれは真実ではありません。草は枯れても、根が残ります。残された根はひと冬を耐え、春にはまた芽を吹いて大地に顔を出します。つまり草木は、生から死へ、死から生へと移ったわけではなく、単に目に見える姿を変えているにすぎないのです。芽を吹いたばかりの草木も、青々とした葉をつけた草木も、枯れ果てた草木も、姿は変えても同じ一本の草木であることになんの変わりもありません。

形あるものはすべて、いつかは姿を変える定めにあります。永久に同じ姿をとどめている物など宇宙には存在しません。その証拠に宇宙自体が、今なお膨張を続けています。

はじめから物には定まった形などないのです。すべては一瞬の間に、仮の姿をとどめているにすぎません。それを釈迦は般若心経のなかで「色即是空、空即是色」と看破しています。

満開に花咲く桜しか見たことがない人は、枯木を見ても同じ草木だと思うことはできないでしょう。枯木しか見たことがない人は、春になって満開の花をつけた桜を見て、それが同じ草木なのだと思うことはないでしょう。

同じように、生きている今だけしか知らない私たちは、肉体を持った今がすべてなのだと思い込み、肉体が無くなった後の姿を自分と重ね合わせることがなかなかできません。でも本当は、どちらも同じ自分自身なのです。呼吸の通っている間が生であって、呼吸が通わなくなったら死と考えることは、間違っています。

生まれたり死んだりするように見えるのは、単に物が姿を変えたにすぎないのです。

私たちの肉体もまた、刻々と変化しています。一瞬の間にひとつの細胞が生まれ、ひとつの細胞が死んでいます。いうなれば、一日に私たちは何度も生死を経験しているのです。しかし、それでなにかが変わったでしょうか。なにも変わっていません。私という存在は、今なおここにとどまっているではないですか。

日常にありふれた生死も、肉体そのものが失われる大きな単位としての生死も、中身は一緒です。外見の姿が変わろうとも、生命体という本質はなんら変わることなく残るのです。