◇12.頭が取れれば、誰でもよろこびが源く

頭が取れれば、誰でもよろこびが源く

「人間完成」への確かな道のりを歩むためには、「頭を取って」X軸とY軸の交差するゼロ地点に納まる必要があると述べました。

それでは、「頭を取る」とは、どういうことでしょうか。

人間は物事を行おうとするときに、まず結果のことをあれこれ考え、気にしながら行動に移すのが普通です。いわば理性的に判断するということです。

この理性的判断が上手いか下手かが、人生の成功のポイントのようにさえ思われています。

つまり、自分なりにあれこれ考え、過去の経験や他人と比較しながら、ああでもない、こうでもないと先のことを「想像」して、自分なりに納得したところで行動に移します。これは、生きていく上で必然的にしてしまうことなのですが、この「ああでもない、こうでもない」という思考が、逆に悩みや苦しみを生み出しているという事実も否定できません。

つまり、人間の悩みの大半は、「将来への心配ぐせ」「過去へのこだわり」だということなのです。

だから、「頭を取る」ということは、言い換えれば、その心配ぐせ、こだわりを取ってしまうことであるとも言えます。

心配ぐせというのは、まだ見えなくて当然の「先」を見ようとするあまりの「転ばぬ先の杖」であり、つねにあれこれと心配を重ね、まだ来もしない将来のために「今」という時間を暗たんとしたものにしてしまいます。「今」が暗く見えない状態だということは、真実を見損ねるということです。

ところが人間は、現在までの経験や社会的常識、道徳、風習、宗教などにしっかりと捕らわれており、ガンジガラメになっています。常識や道徳や宗教というのは、すべて「先行き」に支障をきたさないための、転ばぬ先の杖のようなものです。

「頭が取れた」状態というのは、生命に対する純粋な畏敬のおもいとよろこびに満たされた状態であり、「もともと無い物事、無くてもよい物事」に対する執着が消えた状態です。人と比較して「もっとお金があれば」「もっと美人だったら」「もっと学歴があれば」と思うより、「今、なんだか楽しくてしかたがない」とおもえる人間になったほうが百倍も幸せだと思いませんか。

花は人間に「きれい」と言って欲しいから咲くわけではありません。ただ自分の役割を果たしたとき、結果的に他をよろこばせていただけのことです。見返りがないというのは、そういうことです。自分の利益になるとかならないとかをいっさい考えずに、ただやることができるのです。

どんなに家族に尽くすことに幸せを感じる女性でも、いったん夫婦の危機に陥ったら、あるいは、子どもが親の言うことを聞かなくなったら、どうでしょうか。「私は、今までこんなに尽くしてあげてきたのに!」「こんなにしてあげたんだから、もっと○○してくれてもいいはず!」「これまでの私の人生は一体なんだったの!」というおもいがいてくる場合がほとんどでしょう。

頭が取れれば、こんな見返りは求める必要がなくなりますし、天から送られてくる生命活性エネルギーである天行力てんぎょうりきが存分に流れ、よろこびの「おもい」を刻むことで現実が正常に循環し始めます。本来のプラスの現象が起こってくるのです。

そんなふうに簡単に変われるものか、と思う方もおられることでしょう。「変わる」のではなく、本来の姿に「戻る」のです。

一度、この頭のふたを取ってみれば、頭がどんなに愚かであるかを知ることができるはずです。スポーツ選手が優勝時に行う祝勝会で、歓喜の渦に包まれるなか、シャンパンを振りそのフタを取った瞬間、ビンの口から泡が勢いよく吹き出す場面は、誰もが目にしたことがあるでしょう。「頭」というフタが取れると、まさにこの泡のごとく、よろこびがお腹の底から込み上げてくるのです。首から下に眠っていたよろこびが、とめどなく吹き上げてくるのです。