私たちは生まれるとき、まず、「オギャー」と、よろこびのうぶ声を吐き出します。そして現世において日常のなかで修行を行い、天のもとに帰るときには静かに息を引き取ります。誕生とともに息を吐き出し、臨終のときに息を引き取る──これが人間の人生です。しかし、そこにひとつだけ天との約束事があります。すなわち、歓喜とともに吐き出された息は、歓喜のうちに引き取らなければならない、ということです。人が息を引き取る瞬間、その刹那によろこびの「観い」を源かせているかどうか。それが人生の最終評価となります。
死にぎわの「観い」のあり方に応じて、人にはさまざまな形の死が与えられます。人間を完成させた者の死はいわゆる「大往生」であって、周囲に見守られながら苦しむことなく、安らかに息を引き取っていきます。そこには「今まで生かしてもらってありがとう」という感謝の「観い」しかありません。
ところが苦ばかりを刻んだ生きざまをした人は、言ってみれば自然の法則にはずれた不自然を生きた人ですから、死も当然不自然なものとなります。不慮の事故や災難に巻き込まれて亡くなったり、他者に殺められて亡くなったりといった不自然な死にざまもあります。そうした不自然な死を余儀なくされるというのは、自らそういう状況を招き寄せたのであり、そこには「観い」のあり方が深くかかわっていることは言うまでもありません。
絶対にしてはならない死に方というのが、自殺です。人がいつ最後の瞬間を迎えるのかを決めるのはひとえに天であって、この自分ではありません。人間を完成させよと、それに足るだけのすべてを与えられて誕生したにもかかわらず、その使命を中途で放棄して自ら命を絶つことは、人間として絶対にしてはならないことです。その苦を刻んだ生きざまと、苦の「観い」のままで死ぬという死にざまは、家族にそのまま伝播していきます。自殺者のいる家系にふたたび自殺者が出たり、不慮の事故にあう者が多く出たりするのは、そうした自殺者の「観い」が伝播し、家族もまた苦を刻むという現象にほかなりません。
人の死にざまは、その人間の生涯の通信簿のようなものであり、その人の刻んできた「観い」を如実に物語るものであると言えます。死にざまをみれば、その人が今までよろこびの「観い」を源かせた人であるのか、それとも苦の「観い」を刻んできた人であるのかが一目瞭然です。死に臨んでは、現世の価値観など一切関係ありません。どんな高僧であろうとも、死に際にもがき苦しんだのであれば、結局のところ人間完成を遂げたとは言えません。
そして、その死にざまに応じて、肉体を去ったその生命体の行くところが異なってくるのです。