◇4.天国、地獄は現世にある

天国は今ここにある

今日科学が進歩し、物理的な側面ばかりを重視しがちな現代人であっても、ほとんどの人は本能的に、自分が単に肉体のみで作られている存在ではないだろうことを知覚しています。まだ見ぬ死後の世界への脅えは、少なからず潜在的に息づいているでしょう。そのかぎりにおいては、「天国に行きたい」「地獄に落ちるのだけはいやだ」という思いは致し方のないことです。でも同時に、そういう観念がもとになって、何か事があればすぐさま宗教に救いを求めるような安易な姿勢を生み出すことにもなります。

だからこそ私たち一人ひとりは、「現に今こうして生きている」という事実に気づかなければならないのです。死後の天国や地獄という観念に縛られて、この現実の生を「死後のため」に生きるのであれば、今というこの瞬間を大切にすることも、よろこぶことも、決してできないでしょう。かといって、よろこびにも何にも支配されずに不動の構えで生きる姿は、いかにも聖人せいじん然と映るかもしれませんが、それは無感動ということにすぎません。そのような無味乾燥な生き方は、人間としての本来の姿とあまりにもかけ離れているのではないでしょうか。

人間としての当たり前というのは、生れながらに授かった物すべてを活かしながら、「今」の「おもい」をよろこびにまで高めるということです。そのためにこそ、他の動植物にない感情が備わっているのです。楽しみよろこぶことのない生き方は、人間の「当たり前」に沿っていません。何度も述べるように、私たちの生は、よろこぶことにこそ、その本分があるのです。

平凡な毎日の生活のなかにも、よろこびはいくらでも詰まっています。うれしかったら素直によろこべばよいのです。未来のために今を生きるのではなく、今を生きてこそ未来があります。その当たり前のことを、決して忘れてはいけません。よろこびのおもいをかせることができれば、至福に満ちた今を体験できるのだということを。

すなわち、天国とは、まずこの生活のなかにこそ見出すべきなのです。それがキリストと釈迦の境地です。この現象世界のなかで肉体を持ったまま体験した天国と極楽浄土の至福。その至福の歓喜が、彼らをして神の国に誘い、彼岸の浄土に誘ったのです。

聖書のルカによる福音書のなかに、こんな記述が残されています。

──神の国はいつ来るのか、とパリサイ人が尋ねたので、イエスは答えていわれた。「神の国は見られる形で来るのではない。また、見よここにある、あそこにあるなどとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」──

キリストの真に伝えたかった天国の姿が、この言葉のなかにあります。彼はこう言っているのです。「天国は死んでからたどりつく場所だと思ってはならない。天国は今あなたが生きているこの世界に、あなたの住んでいるその場所に、今というこの瞬間にすでに存在しているのだ」と。天国を死後に求めるのではないのです。涅槃、極楽を、彼岸に求めるのではないのです。私たちの生きるこの世界にこそ、それら至福の世界は存在しているのです。