人間を完成させ、天上界へ進むことが私たちの理想であることは間違いありません。あと一歩で人間完成に至らなかった場合は、転生界で再度修行を積むことになります。それでも転生界に位置するのなら、そこからもう一度人間完成にチャレンジする機会が与えられるのですから、また進化できる可能性はあります。
でも、転生界と異なり私たちが絶対に行ってはならない場所、それは地獄界です。
自分は地獄に落ちるような悪いことはしていないから安心だと、安易に胸をなで下ろすわけにはいきません。天上界へ進むための基準が私たちの常識や道徳とは異なっていたように、地獄界へ落ちなければいけない生命体の基準もまた、私たちの想像しているものとは大いに異なっているからです。
地獄界に位置するのは、必ずしも私たちが一般的に考えるような悪行を積んだ生命体ではありません。地獄界に位置する人とは、生前によろこびよりもはるかに多い苦を刻んだ人であり、他人の人間完成の足を引っ張り、自分のためだけに人生を使った人です。今日、過半数の人々がこの類に属することを考えれば、自分だけ安心だと高をくくるわけにはいきません。
あなた自身を含め、家族や周囲の人を観察してみてください。その人は何ひとつ問題がなく幸福に包まれ、いつも笑顔でいる人でしょうか、それともなんらかの問題を抱え苦悩している人でしょうか。その人は自分より他人のことを思いやることのできる人でしょうか、それとも利己的な人でしょうか。
残念ながら後者の方が圧倒的に多いのが、今の世の中でしょう。
人生で不平不満ばかりを吐き、苦しんでばかりいた人は、ほぼ地獄界へ進むことになります。地獄界は、自分自身の苦の「観い」が作り出した世界で、実体があるわけではありません。その人の苦の想念と、他の誰かが刻んだ同じような苦の想念とが共鳴し、できた世界なのです。地獄界には、現世での欲望、怒り、悲しみ、その他あらゆる執着が、そのまま持ち越されます。
物欲にとらわれた人は、地獄界においてもなんらかの物を追い求め、前後の見境なく奪い合う世界へと入ることになります。地上と違って、想念そのものが形になるため、生前と同じような、あるいはそれ以上の苦痛を生命体に直接感じながら存在し続けることになります。肉体がないのですから、死ぬことも逃げ出すこともできません。「観い」がむき出しになる世界だけに、自分のことだけを考えようとする利己的な「観い」を隠すこともできません。他人へのねたみや憎悪を抱いた場合には、それがそのまま自分にはね返ってくることになります。嘆き悲しめば、そのまま悲劇的な世界が自分の目の前に次々と繰り広げられることになります。
地獄界の世界は広大であり、全部で333段階に分かれています。下へ行けば行くほど、苦しみの度合いは増します。地獄界の一番上には転生界との境があるのですが、あえて視覚化したイメージで伝えれば、そこは分厚い鉄板のようなもので覆われています。それほど厳然とした境界が存在しているのです。そこから抜け出すのは並大抵のことではありません。
地上界であれば、どれだけ苦しい毎日が続こうとも、わずかな安らぎや平和な時間も訪れます。ところが苦の「観い」が現象化される地獄界においては、そうした時間さえなかなか得られません。身に降りかかる災厄にさらに苦の刻みを重ね、より苦しい現象を招き寄せることになります。
実際のところ、苦の深みにはまり、数万年も地獄界で苦しんでいる生命体は数多くいます。
また、地獄界から抜け出し、転生界へと進むことのできた生命体であっても、再び人間として生まれ出るときの環境は、かなり厳しいものになります。何万年もの長い修行を経てきただけに、その真価を問うために、より重いハンディが課せられるからです。