人は死を不可避の運命であると自覚することから、死後の世界についてさまざまな思いをめぐらせてきました。不思議なことに、地上のほとんどの民族、宗教が、ある共通した死後の世界の観念をもっていると言われています。そのルーツをたどれば、古代の人々の素朴な死生観が浮かび上がってきます。日常の生活そのものが自然と一体であり、大自然の恩寵なしには生存さえ難しい古代の人々にとっては、自分の存在を大自然の姿に模して考えるのがごく自然なことであったに違いありません。
沈んでも必ず昇る太陽と月と、星々。葉が落ちてもまた芽を吹く木々。古代の人間は、自分たちもまた、死したあとに蘇るのだと考えました。
肉体は滅んでも、魂という別の形で存在するのだという認識です。そこから死後の世界についての観念が生じたのではないでしょうか。
仏教では、人は死後において、天国か地獄のどちらかに行くと説かれています。浄土思想が定着した日本では、極楽浄土と地獄といったほうがなじみやすいでしょう。私たちの住むこの世界から10億万の仏土を過ぎたところにあり、七宝で彩られ、妙なる楽の音に満ちた美と安楽の世界である西方極楽浄土。ここに往生した者は、現世において果たすことのできなかった悟りを必ず達成することができるとされます。
対する地獄の観念ですが、仏教経典にはさまざまな種類の地獄が出てきており、そのなかでもよく知られているのは、私が小学生の時分に信じた無間地獄を最下層とする八大地獄でしょう。生前の悪行の報いとして地獄に落ちて苦しむという観念が、ここで形成されます。
キリスト教においては、天国と地獄という二つの世界があり、倫理的な基準による死後の審判により、人はどちらかに選別されると説かれています。最後の審判は、この延長線上に位置づけることができるでしょう。すなわち人は世界が終末を迎えるとき神によって裁かれるとされ、悪しき者は地獄の業火に焼かれ、正しき者は祝福されて天国に入り、永遠の生命が与えられるとされているのです。
これらの伝統的な宗教に共通しているのが、倫理・道徳を物差しにして人の生前の行いを善悪に分け、善い者は天国に、悪しき者は地獄に行くという観念です。