◇5章 ただ繰り返しの法則

3.生かされている人間

たとえば、私たちが「人間とはいったい何か」という疑問を発するとき、ほとんどの場合、頭の中に無意識の前提があります。それは、「自分で生きている」という意識であり、それは、自分をこの宇宙の中心に据えた意識といえます。
自分では認識しにくいかもしれませんが、常に「自分で生きている」のであり、「どのように生きるのか。どのように生きれば、幸福な人生を送れるのか」という意識でこの世を眺め、生活しています。
つまり、生の主体はあくまで自分であると考えています。そのため、「自分の生き方が分からない」、さらに「人間とは何か、どのようにすれば幸福になれるのか」という疑問を持ち、悩みを深くするのです。
しかし、苦心の末にそのような疑問に対する答えが頭の中で導き出されても、現実の生の問題は何ひとつとして解決できません。
仮に、究極的な真理だと思えるような答えが得られ、納得できたとしても、現実の人間関係、家庭不和、病気や経済的危機に対し、まったく以前と変わらない悩みや憎しみが起こってくるのが現実なのではないでしょうか。
私たちは生の根本において、「ボタンのかけ違い」をしているのです。
「自分の生き方が分からない」というのは、「自分で生きている」と考えているからです。しかし、現実の世界では私たち人間は「生かされている」のです。決して「自分で」生きているのではありません。
現実の世界では「生かされている」のに、「自分で生きている」と思い込んで生を営もうとすれば、現実の世界のさまざまな出来事が悩みの原因となるのは当然です。根本的に現実の世界と頭の中の世界が違うのであり、頭の中にある考えの通りに現実が動くわけがないからです。
人間は、自らの意志でこの世に生を受けたのではありません。また、同じく、自らの意志によってこの世を去るのでもありません。自分の意志を離れたところで、誕生と死の間の人生が与えられているのです。それが、「生かされている」ことの厳然たる事実なのです。
この「生かされている」という事実を、私たちは日常生活の中でまったく忘れています。いえ、忘れるだけならそれほど問題ではありませんが、むしろ、「自分で生きている」という感覚によって拒否しています。
事実を拒否しているために、その結果として、いわば辻褄合わせをしようとして四苦八苦しているのです。
「自分で生きている」から、わが身が可愛い。わが身が可愛いから、わが身を守ろうとこだわるあまりに病気が苦悩に代わる。わが身が可愛いから、人間関係や仕事において保身に走る。保身に走るから、なおさら物事がうまく運ばない。物事がうまく運ばないから、相手を疑い、憎み、攻撃する。攻撃するから、憎しみはさらに大きくなっていく……。
まさに堂々めぐり、苦の悪循環です。
「自分で生きている」、言い換えれば「自分が人生のすべてを作っている」という土台に立っている限り、私たちは決してこのような苦の循環から逃れることはできないのです。
このような「アタマ」の世界とは正反対の世界が、「喜び」の世界です。
「生かされている」という事実に根ざした人間本来の世界です。
それは、「目には見えないが、すべての人間の中に健康も、喜びも、繁栄も入っている」という世界です。
自分で生きているのではなく、生かされています。
その生かしている本体は、宇宙大自然の創造主である「天」なのです。
そして、なぜ「生かされている」のかと言えば、生かされているその人生において「ただ喜びをかす」ためなのです。