◇2章 生命力を発揮させない頭

5.「幸福」の思い違い

自分や家族の幸福を拒絶する人は一人としていませんし、むしろ幸福を現実のものにするために日々励み続ける一生であると言って過言ではないでしょう。そのために人は苦学し、不遇にも耐え、その先にあるであろう幸福を夢見て今日を生きています。
しかし、真の幸福とは、不幸があるから幸福が味わえる、苦しみがあるから喜びが味わえるというような、条件付きのものではなく、こみ上げるような幸福感に絶えず包まれ続けていることなのです。
長い人生であっても、こみ上げる幸福感に包まれる時間は、合計してもせいぜい2、3日、長くても1週間位ではないでしょうか。
このようにあまりにも短時間の幸福体験のためか、多くの人は、喜びや幸せとは、一瞬間の感情だと信じ込んでいるようです。そして、その幸福感を味わうためにはその正反対の感情である苦しみも味わう必要があるというような幸福感を受け入れてしまいます。その結果、まさに、「人生、楽があれば苦がある」というのが、人生の深遠な真理となっています。
この苦楽を抱き合わせた幸福のとらえ方は、全人類に浸透し、まったく疑問の余地のない人生の真理として認識されています。
福は災いと対であり、幸せは辛抱や苦しみと対である。どちらか一方ではなく、幸福と不幸は、必ず陽と陰、表と裏の関係にあると考えるのです。まさしく人生は山あり谷ありで、そう信じて疑わない人は、確かにその通りに喜んでは苦しみ、いつ果てるとも知れない禍福の堂々めぐりの中に生きてしまいます。
このような人生のとらえ方には、一面の真理が含まれています。
たとえば、ご飯を美味しく食べるには、空腹になることです。うまい水を飲むには、のどを渇かすことです。また、苦労した仕事が完成すれば、言いようのない喜びを味わうことがあるのも事実です。
仮にこれが真に幸福の原理であり、必ず苦の後には幸福がある、ある程度苦労すれば必ず幸福になれるとしたところで、人間は本当に幸せになれるのでしょうか。
幸福とは本来、一瞬の感情でもなければ、苦労の裏返しというような単純な構図で推し量れるものではありません。精いっぱい汗水流して努力しようが、いつまで経っても幸福になれないことのほうがむしろ圧倒的に多いのです。これだけ苦労したのだから、そろそろ幸せになるはずだと思っていると、むしろ幸福どころか、ますます苦労するのが現実の人生ではないでしょうか。
また、「幸福だと思えばその人は幸福である。不幸だと思えばその人は不幸である」という考えは、いわば、頭が考え出した幸福の理論の中で最も説得力に富んでおり、ほとんどの人が信じ込んでいます。
幸福だと思えば幸福であるというならば、その幸福はいわば言葉だけの幸福にすぎないことになります。すなわち、不幸を感じたときに幸福だと無理に自分に言い聞かせると、逆に強いこだわりが生じて、無意識に、不幸だという気持ちが強くなってしまうのです。
幸・不幸を頭でいかに操作しても、私たちは決して幸福にはなれないのです。
これに対し、ふといてくる幸福は、一瞬の感情でも、頭で操作する幸福でもありません。それは、宇宙大自然と一体になっている喜びであり、また、天の広大無辺のエネルギーが素直に源き続ける体験です。
源いてくる幸福は、一瞬の感情のように一過性のものではなく、切れ目なく、泉のごとく尽き果てることがありません。それゆえに苦悩と無縁となり、最高の人生を生かされます。
私たち人間の中には、初めから幸せも健康も繁栄もすべての喜びが入っています。自然の法則に沿った生き方をしていれば、求めなくても、考えなくても、それらすべての喜びが源き続けるのです。
そうした存在として、私たちは生かされているのです。