◇5章 ただ繰り返しの法則

2.人間はただ流すパイプである

人間は、他の生物と同様に「パイプ」という身体の特長を持っています。
人間が誕生するとき、受精卵の細胞分裂からスタートしますが、一切の器官を形づくる前に、口から肛門へと続くパイプが、細胞分裂により形成されます。
また、人間としての形態を整えたその姿においても、パイプとしての形が基本構造になっています。
たとえば、口から食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、直腸、肛門へと続く消化器官としてのパイプは、食物を流すことによって肉体を維持するための栄養摂取の場となります。このパイプが詰まったら、すぐに肉体の死が訪れます。
また、心臓をポンプとして流れる血液は、血管という体中に張りめぐらされたパイプを通じて組織や細胞に必要な物質を供給し、それだけではなく不要物を運び去り、生命活動を支えて循環しています。このパイプの流れに異常が生じたら、血圧異常や炎症や細胞の壊死が発生して、肉体が健康を損ないます。
さらに、一見すればパイプに見えませんが、私たちの肉体内の情報処理網である神経系統もパイプです。このパイプは、電子という物質を流すことによって情報を処理し、肉体のスムーズな動きを調整します。神経が切断されたり、死滅すれば、私たちは自分の肉体を動かすことができなくなってしまいます。
このように、人間のありのままの姿を素直に見ると、私たちの存在は、パイプによってその生命を発生させ維持しているということが分かります。パイプに流すことによって私たち人間の機能が成り立っているということは、流れを止めたなら、私たちは人間として成り立たないということです。
流れる、流すということは、生命にとって最も基本的な形態です。というより、天地にある万物は、流すという形において、その存在を維持すると同時に、最も本来の姿を表すのです。
たとえば「こだわる」ということは、まさしく流れを止めるということです。それは、一点に意識が凝り固まり、そこから離れず、ひとつの対象を求めたり、願ったり、頼るということにおいて、自分という生命体をそこにくぎづけにしてしまいます。
右から入ったものは左に流せばいい。
上から流れてきたら下に流せばいい。
流れるままに、すべてを流せばいい。
これが、大自然の法則です。
しかし、私たち人間は入ってきたものにこだわり、執着し、自分の中に握りしめてしまいます。握りしめることによって幸福が手に入るかのように頭が錯覚してしまうのです。
握りしめる。すなわち、それは独り占めしようとすることです。独り占めしたものは、まさしく流れない水のように、その人自身の中にとどまり、その中で腐敗していくものでしかありません。
金銭、名声、地位、容姿、あるいは神仏、心理、幸福、健康。すべては確かに人間の心を引きつけるものです。しかし、それを求め、自分のところに留めておこう、握りしめて放したくない、独り占めしようと考えた瞬間に、もう苦しみが始まっているのです。
金銭で苦しんでいる人は、まさに金銭を握りしめています。子どもの問題で苦しむ人は、まさに子どもをしっかり握りしめています。
不幸に苦しむ人は、まさしくひとつの観念を握りしめている人なのです。
私たちは、一切を握りしめてはならないのです。流れを止めてはならないのです。流れのままに自由自在。流れのままに生かされる。まさに、生命が生命として生かされていることの喜びを味わう今の連続があることが、本来の人間なのです。
しかも、それはまた、大自然のただ繰り返しのリズムを自然に表現していく原動力になるのです。
そうして大自然のリズムに完全に合致するとき、人間は喜びのおもいをき上がらせる存在となり、いつのまにか、人を魅きつけ、財産を引きつけ、健康を引きつけ、喜びが込み上げて止まらない存在になるのです。