2、善い人が幸せとはかぎらない皮肉

「どうして…?」

「ありえない!」

納得のいかない出来事に首をかしげたくなることは、私たちの生活には山ほどあります。なかでも、深刻な事態に陥り何らかの問題に悩み苦しむ人の多くは、正直者で、誰が見てもあの人は良い人だと評価される人だということです。あの人は一生懸命努力しているのに本当に報われない人だと、皆が同情するほどのい人であり道徳性のある人です。
それに対して、一見すると口も悪そうで、さほど人も善さそうでないという人がえてして成功していたりするものです。そのため世間では、正直者は馬鹿をみると言っては世の不合理を嘆いたりします。

しかし、正直者に見えるのは、単に人間が自分たちの物差しで外見を判断することによるものです。道徳も善悪も人間が作った物差しであり、いつの間にかその基準に従っていれば、すばらしい人間であり、幸せであると思っているのも、人間の勝手な頭の解釈でしかないのです。
もちろん、人をだまし、苦しめる人間が真に幸福になれるわけがなく、もっと大きな問題に見舞われることになります。
しかし、率直にいうと、善といわれる行為であっても、やらなければならないからと義務感でやるならば、自然の法則から見れば自らをだまし苦しめることになるのです。

人間の作った善悪の尺度に従う生きざまは、まず頭で計算することであり、本当の感謝と喜びがくことを妨げる習慣そのものです。まず自分が善になっているかの計算をしてしまうのです。
そこに喜びや満足感はありません。

一つの事例を挙げてみます。
若い女性に走り、会社の金を使いこんだあげく解雇され、最後には自ら命を絶ったある企業の部長がいました。その妻は、それはよく耐え忍びました。子どもがいじめにあい、やがて非行化し手がつけられない状態となり、二重三重の苦しみを味わいました。
彼女は何も悪いことはしていません。夫が女性に狂っている間は懸命に家庭を守り、夫の死後は堅実に働き、必死になって生きようとしました。
訓話的な発想ならば、ここで彼女に恩恵が訪れて当然です。
しかし、現実はどうだったかというと、彼女は心身のバランスを崩したあげく最終的にがんを宣告されたのです。

本人は真面目に頑張っていてちっとも落ち度はないのに、不幸に見舞われたのです。
自然の法則は厳しく、人間の頭で作り出した道徳も倫理も一切通用しません。苦(マイナス)をためこんでいるという事実のみで判定されてしまいます。

私はといえば、それまでの人生を振り返ると、常に周りの人によく思われたくて、自分を押し殺した我慢比べのような半生でした。
小学生の頃は、母親の厳しい教育指導のもと、良い成績を取り、学校でも近所でも評判になっていることが私の勤めであり、母親が私に関して近所で鼻高々でいられることが私の日々の目標でした。
中学生になると、成績が良いことが当たり前という周囲の評価が出来上がっていたので、ますます自分に課す勉強時間はエスカレートし、平日、土日は関係なく、食事と睡眠時間以外はすべて勉強時間に充てていました。そこには、父親の会社における地位が低かったことを反面教師として、あの父親のようにはなりたくないという強迫観念が自分を駆り立ててもいたと思います。
その後、就職、結婚を通じて環境は変わっていっても、根底には「周りからよく思われたい」という意識が抜けないまま人生の半分が過ぎた45歳頃から、次々と問題が生じだしたのです。

今から考えると、45年間ためこんできた苦(マイナス)が、一気に吹き出して現象化しだしたのです。