3、「観い」の存在を知った

苦悩の末に自殺まで考えた絶望の淵から、いかにして私自身が立ち直ることができたのか。
それは、学校でも教えられなかった「人間のしくみ」と、この世には「自然の法則」という厳然たるルールが存在することを知ったからでした。

人間は「身」と「心」と「魂」でできていることは誰でも知っていますが、これに「おもい」というものがあることまでは、なかなか知るすべがありません。

まず「身」とは肉体のことで、人間としての作業着のようなもの。これには平均80年という限界があります。
そして「心」とは、脳が作り出す意識のことです。知る・思う・考える・見る・聞く・感じるという、いわゆる意識として感知できる領域が心だといえば分かりやすいでしょう。
3つ目の「魂」もよく使われる言葉で、この宇宙がなくならないかぎり消滅することのない、永遠に存在する人間の本体です。

世間では、身と心の2つ、あるいは身と心と魂の3つをもってこの世に誕生したと思っている人がほとんどではないでしょうか。

しかし、実は人間には4つ目の「おもい」があったのです。

嫁と姑の関係を例にあげれば、道徳的には嫁は姑を実の母親のように敬い仕えるべきということは分かっています。
しかし、特に同居の場合、嫁と姑の間が険悪になり、夫婦の離婚にまで発展するという話をよく聞きます。お互いに立派な大人なので、相手の言うことを素直に聞けばいいと頭では分かっているのに、そのとき、嫁と姑に無意識にこみ上げてくるのが憎しみの観いです。

私も小中学生の頃から似たような観いを持ち続けていました。
私は体が小さく気も弱かったのですが、いっぽう私の母は、若いころ陸上の選手で身長が165センチもあり、迫力も相当ありました。その母には抵抗できず、いつも言われるままになっていました。
しかし、高校で運動部に入り体が大きくなったこともあり、反抗期と重なって、母親から何を言われても反抗していました。そしてしょっちゅうケンカをしていました。ほとぼりが冷めて、夜寝る前には自分が悪かったことに気づき、反省をして、明日の朝起きたら謝ろうと思って寝ます。
ところが翌朝、目を覚まして母の顔を見たとたんにまたムカーッと憎しみがこみ上げてくるのです。
頭の中では「謝らなければいけない」と分かっています。
分かっちゃいるけど、やめられない──
身に覚えのある人も少なくないのではないでしょうか。
「こみ上げてくるな!」と意識で抑えようとしても、憎しみや不安、イライラがこみ上げてくる。

この、頭ではコントロールできない無意識にいてくるものが「首から下」にある「おもい」なのです。

そして、実はこの「観い」こそが、今の生活、目の前の現象を作っていたのです。

あの釈迦は、「一度刻んだ観いは宇宙の隅々にまで行き渡る。人を憎めば、その観いは直接相手に伝わるばかりか、全宇宙に伝わり、やがて何倍にもなって自分にはね返ってくる」ということを弟子に伝えています。
それほどに観いのエネルギーは強く、現実の生活を作っていく力があるのです。

つまり、このこみ上げてくる「観い」こそが人間の本体であり、現実の生活を作り出す「もと」だったのです。だから、生活を変えたい、人生を変えたい、目の前の現象を変えたいと思えば、この「観い」を変える以外に方法はないのです。

しかし、ここに落とし穴があります。
「よし、分かった。今は病気だけど、今からすぐに『観い』を良いほうに変えて病気を治すぞ」と思うとしましょう。そう思えば思うほど、こだわりが強くなり、むしろ無意識の観いはマイナスになってしまい、生活にもマイナスの結果が出てくるのです。
なぜなら、良いことを意識すればするほど、現実に病気でありツキに見放されているかのような現実を眺めては、そのこだわりがかえって強くなるからです。
だからと言って、「じゃあ、良くなる努力も放棄して、あきらめよう」なんて思ってしまっては、観いはやはりマイナスのまま変わることはありません。

では、どうすればいいのか。
1つだけ方法があります。
それは、「観いをプラスにしよう」と思うのではなく、何があってもプラスの観いでいられる自分になるということです。
どんな問題が生じても動じることがなく、常にプラス(喜び)の観いがあれば、その観いが翌日以降の生活に表れ、不用な問題に悩み苦しむことがなくなります。
それは奇跡でも偶然でもなく、法則に沿った当たり前の現象です。

「観い」とは、生きている人間にとって一番大事な、人間の魂そのものが発する波動ともいうべきもの。嬉しい、楽しいといったプラスの観いで生きるか、憎しみや不安といった苦(マイナス)の観いで生きるか、それを無意識に決定して発しているのは、ほかならぬあなた自身なのです。