今でこそ自然の法則を体得し、行を実践することで喜びに満ちた生活を送らせていただいている私ですが、ここに至るまでは決して平坦とは言えない道のりでした。
小さいときから豊かな人生を手に入れようと勉学に励み、有名国立大学に入学しました。卒業後は化学会社に就職し、工場勤務をしているときに学生時代からつき合っていた妻と結婚しました。
妻の父親が公認会計士であったこともあり、6年間努めた会社を退職し公認会計士の勉強を始めました。
公認会計士試験に合格したときは、今まで歩んできた人生の絶頂期でした。自分が努力しさえすればすべて自分の思い通りになると思っていました。
ところが、思ってもみなかったところから問題が生じてきたのです。
2人の男児を授かったのち、妻がどうしても女の子が欲しいと思っていた矢先に3人目を授かりました。ところがそれも男の子であったために、被害妄想に端を発して妻の様子が日に日におかしくなり、妻は1ヶ月ほど入院しました。
三男がお腹にいるときから、妻は女の子が生まれるか不安を抱いていたので、生まれてからも妻から愛してもらえない三男は、小学4年のときから不登校になりました。
私の持病であった腰痛が悪化し出したのは、三男が不登校になり出した頃で、慢性的なほとんど歩けない状況にまでなりました。医者にも原因が分からず、将来は車椅子での生活になるのかという不安を持ちながら生きていました。
思ってもみなかったところで次々と問題が降りかかり、それまでの順風満帆だった生活から一転、不幸のどん底に落ちてしまいました。
小学生のときに通い慣れた教会へ行ったり、不登校の子の問題を扱う会合に参加したり、腰痛に効くと聞けば民間療法機関に通ったりと、考えられるありとあらゆる手段を講じたのです。
けれども、なぜ自分にばかり不幸が降りかかるのか、早くこの状況から抜け出したいともがけばもがくほど泥沼に沈みこんでいく感じで、いっそ自殺をしたらどれほど楽になるだろうと、駅で電車を待っているときに線路に飛びこみたい衝動に駆られたことは幾度となくありました。
そんな折り、1995年1月17日午前5時46分、阪神大震災が兵庫県全域を襲いました。私の家は兵庫県西宮市にありましたので震度7の揺れに見舞われました。家屋の倒壊こそ免れたものの、激しい振動とともに家具はすべて倒れ、身体に降りかかってきました。近所の屋根瓦の二階建ての家はほとんど全壊し、近所だけでも100名ほどが命を落としました。
私の人生を変えた劇的な出会いは、そんな大震災の翌月のことでした。
大阪駅前で手にした本には、それまで読んできたどの本にも書かれていなかった、「頭を取る」という言葉が記されていて、ハッとすると同時になぜか「これしかない」と思いました。
なかでも心惹かれたのは、本書の冒頭に記した言葉でした。
私は何の迷いもなく般若天行の実践を繰り返したのち、その本に書いてあった頭を取る修行に参加しました。
参加する前に、「頭を取るということは、どういうことですか」と係の人に尋ねたところ、「人生、二度目の誕生をするということですよ」と言われましたが、まだピンときませんでした。
しかし、参加してみてその意味がはっきり分かりました。
頭を取るということは、すべてのことに感動でき、すべての人に感謝でき、目の前の人を喜ばせてあげたいという観いが源きあがって止まらない、ということでした。
人間にはこんなにすごい力があり、何があっても前へ進んでいけるということを知った瞬間でもありました。
参加し終えて見た景色は、それ以前に見た景色と同じはずなのに、輝いてまったく違うものに見えました。同じものでも、見る人間が変わると違って見えるのです。すべて、見る人の観いのままに周りが変わるということが自然の法則であるということを、まざまざと見せつけられたのです。
変わったということは、自分自身よりも周りの人のほうがよく気づくものです。
職場に戻ったとたんに、同僚や後輩から「木村、なんか明るくなったけれど、何かあったんか」「木村さん、えらい元気になりはったけど、どうしたんですか」などとよく言われました。
自分自身の生活にも大きな変化が起きました。
頭を取る前は、朝起きると「今日の仕事はこれとこれがある。うまくいくだろうか……」と心配が先に出てきましたが、頭を取ってからは一日の仕事が楽しみで、今日はどんな人に会えるだろうかと、わくわくするところからスタートできたのです。
ですから仕事も順調に進み、人とのコミュニケーションも今までよりずっとスムーズにいくようになりました。
また、頭を取る前は腰痛がひどく、重いものはいっさい持つことができないので、公認会計士として書類を持ち歩く機会が多いのですが後輩に持ってもらうことが多くありました。また、夕方5時頃になると椅子に座っていられないくらい疲労が積み重なり、残業することもできない状況でした。
しかし、頭を取った後は、腰痛はあるもののあまり気にならなくなっていました。気にならないと、不思議と重い書類も平気で持っていますし、疲れもたまりにくくなり、平気で残業ができるようにもなりました。
頭を取り、自然の法則にもとづいた実践を25年間繰り返してきた今だから分かります。私が生まれてから「天に出会う」までの25年間に起こったことは、すべて私に必要な出来事であったということです。良いことも、悪いことも、すべて私が天に出会うために必要なことであったと、今では心底そう思えます。
今、どれほど悩み苦しんでいても、たとえ、自殺をするしかない崖っぷちであっても、まだ天に生かされていて、心臓が動いていさえすれば、生の喜びを実感し、あらゆるものに感謝でき、周囲をも変えていくことができる。それが、本来の人間の姿なのです。