ここまでお読みになれば、プラスの観いを常に刻み、喜びを実感できる人間になるためには、善いものにこだわったり、悪いものを避けようとする分別を超越する必要があるということにお気づきかもしれません。
いったんプラスの観いを刻める状態になれば、よほどのことがないかぎり死ぬまで喜びの観いを刻み続け、安定した幸福な人生を歩むことになります。
いっぽう、マイナスを刻む生活を続ければ、山と谷を繰り返しながら、一歩ずつ大きな苦へと向かう人生を送らなければなりません。かつての私がそうであったように。
苦を感じながら生きている人は、それを変えたいと願い、何かを学ぶことで自分を変えて、より大きな喜びを得たいと考えることでしょう。本を読んだり、人の話を聞いたり、自己啓発や能力開発の講演に顔を出したりするかもしれません。
しかし、知ろうと努力することは確かにすばらしいことですが、期待した結果が出ずに終わるだけならまだしも、かえって複雑な迷路に迷いこんだりすることもあります。
本来、人間は「喜びの表現体」としてこの世に生を受けています。それなのに「喜びの表現体」としての人生をまっとうせず、喜びを得ることもなく人生を終えてしまう人もいます。
「そういう人生はイヤだ!」と考えれば考えるほど、その忌み嫌った人生を現実のものにしてしまうのです。
ガンを知ることと、ガンにならない人間になるということはまったく違います。
「知る」ことと「成る」ことには天と地ほどの違いがあります。
今までの人生を思い起こしてください。幸せになるために本を読み勉強し、講演会に参加した結果、幸せでしかたがないというような毎日を送れているでしょうか。綿密なプランを立てて人生を送った結果、プラン通りの幸せが実現できているでしょうか。
「こういうことをやればこうなる」と納得してやっても、その通りの結果が出ないことが多いのではないでしょうか。まず最初に頭で分かろうとし、納得してからやることは、何をやろうがすでに本当の理解(体得)を遠いものにしてしまうからです。
病気や経済苦の中に苦悩の日々を送っている人間がなすべきことは、「人間とは何か」を考えることではありません。また、「人間はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに納得できる説明を見いだすことでもありません。
今苦しんでいる人は、「あのとき、ああすればよかった」「違う選択をすればよかったのだ」と懺悔にも似た慰めをしがちです。しかし、違う選択を過去に行ったとしても、それが果たして良い結果につながったかどうかは保証のかぎりではありません。健康や成功は確約されないのです。
結局、悩みや苦しみの堂々めぐりを繰り返すだけです。
自分で悩み苦しんで、解決できる問題などほとんどありません。
一人で悩んでもがき、苦しんでいる人間は、目、耳、口は正常な機能を持ちながら、その使い方を知らず、とらわれなくてもよいことにとらわれてしまっている人間と言えます。
映画「奇跡の人」で有名になったヘレン・ケラーは、幼いときの熱病でかろうじて一命をとりとめたものの、視力、聴力、言葉を失い話すことさえできませんでした。幼いころのある日、家庭教師のサリバン女史と庭を散歩していました。すると、サリバン女史がヘレンの手を水の出口に持っていき、手のひらに、はじめはゆっくりと、そして二度目はやや早めに「WATER」と指で書いたのです。
そのときヘレンは目覚めたのです。手のひらにほとばしっているものが「水」だと理解し、彼女の口から「WA……」という言葉にならないようなうめきが発せられたのです。「水」という言葉がその実体に触れて、一挙に結びついたのです。その瞬間、彼女の存在は水と一体となり、彼女の心のなかには水がこんこんと湧き出ていたことでしょう。
生きるということは、ヘレン・ケラーが理解した水のようなものです。いくら言葉で考えても、頭で理解しても、決して本質はつかめないのです。ヘレンは目、耳、言葉の機能を失っていましたが、逆に、目に見えないものを見、耳に聞けないものを聞き、言葉に出せないものをつかんだのです。
それが、生きるということです。
生きるとは自分が生きて初めて理解できるものであり、それなくしては、生のほとばしりも生の喜びも得られるものではありません。
泳げない人に泳ぎを教える場合、畳の上で練習させることがあります。畳の上では無限に泳げますが、実際に水に入れば5メートルも泳げません。もがけばもがくほど沈んでいってしまいます。
実際に泳げない理由は、畳の上の泳ぎは「今」を泳いでいないからです。形のうえだけで、頭の中だけで泳いでいるからなのです。「今」の現実を泳いでいない以上、いつまでたっても泳げることはありません。
実際に泳げるようになるには、まず水に入らなければなりません。水に入り、無意識のままに身体が動く状態になることです。それが泳ぐということです。
「生きるとは」と考え悩んでいる人間は、水を理解する以前のヘレン・ケラーのようなものであり、畳の上で手と足を必死にバタバタさせて、泳いでいると思っている人のようなものです。
真理を説き続けたあの釈迦にしても、そしてキリストにしても、没後、彼らの教えはそれぞれ仏典として、あるいは聖書として弟子たちや後世の人によって記され世界中に広まりましたが、ではなぜ、釈迦やキリストは自身でその教えを書き記さなかったのでしょうか。
それは、釈迦やキリストが本当に伝えたかった救済の真理には、仏典、聖書を知識として「知る」ことでは到達できなかったからです。「知る」ものではないがゆえに、書き記して文章に残すことは釈迦、キリストにとって無意味だったからです。
たとえば「慈悲」とは、人間が生きとし生けるものに対してあわれみの心を持ち、苦から解放することですが、釈迦は「慈悲」ではなく、見返りを求めない「ただ慈悲」の大切さを、そしてキリストは「愛」ではなく見返りを求めない「ただ愛」の大切さを伝えたかったのです。神の子であるキリストが人間の罪を背負って十字架にかかることによって示された神の「ただ愛」こそ、人間どうしも与え合わなければならないとしたのです。
歴史が物語っている後世の苦悩は、そのほとんどが慈悲や愛を仏典や聖書で「知る」だけで救われると考えたことから始まったのです。