私は1974年、母の実家のある新潟県佐渡市で生まれ、3歳くらいからは埼玉県の旧浦和市(現在さいたま市)で育ちました。佐渡といえば、最近、トキのひなの巣立ちが約38年振りに確認され、話題になっています。
祖母の家の思い出
母の幼いころの佐渡では、田んぼにトキが当たり前のようにいて、ドジョウやタニシを食べていたそうです。農薬を使っていない田んぼには、トキの食べ物が豊富にあったそうです。最近では、トキが生息できるように農薬や化学肥料を減らし農薬を使わない田んぼも増えているそうです。私が子どものころには、トキはいませんでしたが、夜に田んぼに行くと稲穂の間に蛍の明かりをいくつも見た記憶があります。
現在、佐渡市新穂にあるトキ保護センターの近くに、母の実家はあります。子どものころ、父・母・妹・弟の5人でお盆には必ず佐渡の祖母や曽祖母に会いに行きました。運転が上手な父の車にみんなで乗って関越自動車道で新潟まで行き、新潟からカーフェリーで2時間半です。途中パーキングエリアで下車し、母が作ってくれたおにぎりを、山や自然を見ながら家族で食べることがいつも楽しみでした。
祖母の家は昔ながらのわらぶき屋根の家でした。私たちが遊びに行くと、祖母はいつもビールと三ツ矢サイダーを用意して、夜はかやをつってくれ、私はその中で家族と寝るのが楽しくてたまりませんでした。夜外に出ると満天の星、しばらく見つめていると、いくつも流れ星が視界に入ってきました。夏の早朝は、目が覚めると、庭ではヒグラシの大合唱がこだまして、子ども心になんとも言えない風情を感じたものでした。
楽しかった子ども時代
そんな大自然に囲まれた佐渡で私の母は育ち、高校卒業後は、持ち前の行動力で上京し大企業に就職したそうです。その後、母はお互いにダブルワークをしていた勤務先で父と知り合い、若くして結婚したと聞きます。私の出産のときには、初めてのお産ということで母は一時実家の佐渡に戻り、12時間に及ぶ難産の末、無事私を産んだそうです。
物心ついたころには、かつての浦和市に親子3人で暮らしていました。しばらくは一人っ子で、両親は共働き。完全な「鍵っ子」でしたが、何かあると近所の方が面倒を見てくれたりしました。周りに遊ぶ友達もいたので、寂しいと思った記憶はありません。音楽が大好きな私に両親はピアノやフルートを習わせてくれて、今もそれらは活かされています。
小学校3年生のときに妹が生まれ、5年生のときに弟が生まれました。妹と弟が小さいころは、母も仕事をやめてずっと家にいてくれました。私は家に母がいることがすごくうれしかった。夏休みは朝ご飯におにぎりとおみそ汁を作ってくれ、日中は自家製のアイスコーヒーを銅の器に入れてくれました。
ちょうど1984年、ロサンゼルスオリンピックがあった夏休み、夜暑くて寝られないので、エアコンがあるリビングルームに家族全員の布団を敷き詰めて、家族5人で横になってオリンピックを見ていた思い出があります。家族みんなでいることが楽しくてたまらず、母も本当にうれしそうでした。
毎日「死にたい」思いがわいて
両親からの愛情を受けて何不自由なく育ててもらい、問題なく高校卒業までいきましたが、その後、私の精神状態に異変が起きたのです。短大に入学して間もなく、私は「なぜ自分は生きているんだろう」「生きていても仕方ない」「病気で死ななければいけない人と命を交換してあげたい」という思いがわいてくるようになりました。
特に何かあったわけではないのですが、毎日「死にたい、死にたい」という思いがわいてくるのです。特に朝、短大に通う電車を待つホームに立っては、毎朝死ぬ方法を考えていました。誰にも言えず、誰かに話すエネルギーすらそのときはなかったんだと思います。
母が頭を取って明るくなり
母が頭を取ったのは、そのころのことです。今思えば、毎日死にたかった気持ちが少し楽になった時期に符合し、母が頭を取りに行ったこととの関係は偶然ではなかったと思います。
母が頭を取りに行ったのは、母のしゅうとめ、父の実母が亡くなったことがきっかけだったそうです。高知県の父方の祖母は、「健康のため」と食べ物に気をつけて、こだわり抜いたあげく、胃ガンで亡くなりました。「なぜあんなに健康に気遣っていたのに亡くなったんだろう」と母は疑問で仕方なかったそうです。家系図を見てもらったり、いろいろな本を読みあさったりした後、自然の法則の本に出会うことのできた母は、すぐに頭を取りに行きました。
「お母さん、頭を取ったのよ」と母が語るのを聞いた私は、「あぁ、お母さんが変な宗教にはまってしまった」と毎日嘆いたものです。家族より先に、母の友人や会社の同僚がどんどん頭を取っていきました。
自分を変えるために頭を取って
もともと明るくて大らかな母ですが、日がたつにつれ、細かいことにこだわらない、うるさいことを言わない母に変わっているのを感じた私は、何かいい雰囲気だなぁと思うようになっていました。それと同時に、自殺願望も少し楽になっていました。母のよろこびは子どもの私に伝わったのだと思います。
しかし、そのままでは、必ずこの先の人生でまた同じようなことで悩み、つまずくだろうと思い、自分を変えたい気持ちでいっぱいだった私は、母に「頭を取ったら変われるの?」と投げかけたのです。「変われるよ」の母の一言で、私も頭を取る決心をしました。もうそれしかないんだ、と素直に思えたのです。母が頭を取って約2年後のことでした。
家族みんなが頭を取って
私が頭を取り、続けて妹、父、弟と、毎月連続で家族が頭を取りに行き、家族そろって三法行(さんぽうぎょう)を繰り返すようになりました。
その後、佐渡の祖母も三法行を始めました。
今まで歩んで思ったことは、家族といえど、皆、まったく別々の生命体なんだということです。いろいろなこともたくさんありましたが、お互いを仕上げるために出会った家族なんだと思います。
母は家族で最初に自然の法則と出会い、いつも私たちを導いてくれています。特に母と私の関係は、親子、姉妹、親友、そして同士のようで、母はいつも私の近くで歩んでくれています。
赤い糸に出会って
両親が赤い糸夫婦になってちょうど365日で、私も長年おもっていた人と赤い糸夫婦になれました。両親はお手本の姿をいつも示してくれています。
経験も生き方も母には到底かなわないのですが、私は大きくて明るい、周りを明るく照らす太陽のような母みたいになりたいと思っています。何があっても夫婦で、家族で、ひとつになって乗り超えていける、両親が築き上げてくれた私たち家族のような家庭に私もしたいと思っています。
私たちを誕生させてくれた先祖がいて、祖父母がいて、自然の法則に出会えた母がいてくれたからこそ、何の不安もなく、法則に沿って歩める私がいます。
おばあちゃん、ありがとう。お父さん、お母さん、ありがとう。――感謝の気持ちで毎日を送っています。
よろこびいっぱいで歩める本来の私にしてくれた、大自然の法則を、全ての方に体感していただきたいと思っています。