私は昭和35年、正午のサイレンとともに、松村家の長男として、この世に生を受けました。父方の先祖は石川県伝統の九谷焼のまき絵師で、親戚は公務員や会社員がほとんど、一方、母方の先祖は近江で商いを営んでいた流れをくみ、商人の家系です。
父と母
地元、石川県加賀市の生まれの父は、徴兵間際の終戦や闘病生活、職場での火災等を通じ、死に直面しながらも生かされていることを実感していて、どこか肚の座った淡々とした人でした。母はよく父の悪口を言いましたが、対する父は、少ない休暇の中よく遊んでくれ、川に行ったり虫取やキャッチボールをしたり、プラモデルを一緒に作ってくれたりした記憶があります。子煩悩なやさしい父でしたが、私が母に口答えすると母をかばい、怒ると先に平手が飛んでくるとても怖い父でもありました。その父も十年前に亡くなりました。
滋賀県との縁
滋賀県大津市の出身の母は、幼いころに両親の事情により石川県の金沢市に住まいを移し、母を含めたきょうだい全員が里子に出されたそうです。母は親戚中をたらい回しにされ、でっち奉公などで苦労したことを、私がまだ子どものころよく話していました。母方の先祖の墓は、滋賀県東近江市にあり、幼いころに母方の叔父に連れられて墓参りをした後、琵琶湖で泳いだ記憶があります。そのことからも滋賀県とのご縁を感じます。
私の物心がつかないうちに、父は職場の火災で大やけどを負い入院したそうです。このとき、父方の祖母は職業婦人だったため、母の手伝いに母方の祖母が家にやってきました。私自身はふつうに思っていましたが、家には父方と母方の両方の祖母が同居することになり、よその家とは少し違っていたようです。
仕事に追われ、自律神経失調症から事故に
両親や祖母のお陰で高校を卒業した私は、大学生活を東京で過ごしました。卒業後は名古屋での就職内定を断り、地元石川へ帰り教職員を目指しましたが、教員採用試験の倍率が高く、浪人できるほどの余裕などなかったため、母が始めたばかりの商いを手伝うことになりました。好景気だった影響もあってか、早朝から夜遅くまで、ほぼ休みがない状態で仕事に追われる毎日を送っていました。
そうして気が付いたら11年が過ぎていました。以前より予兆はあったのですが、ちょうどこのころから体調を崩し始め、その少し前には仕事で追い込まれていたこともあり、車で深刻な事故を起こし、預貯金を全て手放すことになりました。
家業とは言え、一年間で360日の出勤では、切り替えも前向きな発想もできなくなり、20代の大半を使ったこの11年間は何だったのか――やらされている意識ばかりが強くなっていました。経営者である母親の期待も、重すぎるくらい重かったように記憶しています。
また、親があまりに結婚についてうるさく言うもので、しかたなく義理でお見合いを繰り返しましたが、正直しんどかったため、反発したこともありました。そのうち出会いもおかしくなり、私は精神的にも追い込まれて自律神経失調症にかかってしまいました。疲れやすくなり、寒気や発熱がして、パジャマがびしょぬれになるほどの寝汗をかいたり、下痢が止まらなかったり、天井が落ちてくる感覚があったり、手の平や足の裏にミイラのような横線が入ったりと、ありとあらゆる症状が出てきました。
自然の法則に出会い、問題が消えて
けれど、病院で精密検査を受け、結果を聞く前に、私は書店で見つけた本から自然の法則に出会うことができ、頭を取ることになったのです。平成6年2月、33歳のときのことでした。
頭を取り三法行(さんぽうぎょう)を繰り返すようになると、止められなかったタバコをいつの間にか吸わなくなり、下がっていた目線が上がり、自分の住む町にこんなに高い建物があったかと気付きました。緑の景色が目に飛び込んできて、あまりの美しさに感動しました。
同僚からは、「そんなになで肩だったか?」と聞かれました。よほど力が入っていたのでしょう。肩から力が抜け、肩凝りがなくなりました。意識では変えることができない無意識の変化が、そこかしこに現れていました。何が問題だったのか、何の病気にかかっていたのか、それすら忘れていました。
また、止めたかった家業である勤務先を退職し、実家を出ることになりました。生活が一変したのです。お陰で、普通の会社勤めを経験することができました。頑張った分のお給料がもらえ、週一回のお休みもいただけました。自炊をしていてもうれしくて、こんなに恵まれてて良いのだろうかと、不思議な気持ちでした。特別、何か良いことがあった訳でもなかったのですが、一日中幸せな気持ちが湧いていた日があったことをよく覚えています。
赤い糸の出会いが
自然の法則に沿った繰り返しをしている妻と出会ったのは、そんなある日のことでした。法則に沿ったさまざまなコースでステップアップしていこうとする節目ふしめで、本人は無意識だったと思いますが、きっかけを与えてくれたのが、彼女でした。
2007年にただ一人の赤い糸のパートナーとして歩み始めることになったのですが、出会ったころはお互いに好みのタイプではなく、一緒になるとは夢にも思いませんでした。共に歩めるようになるまで、必要な道を一歩一歩踏みしめてきました。
結婚して石川県に住むようになった私たちは、琵琶湖を拠点とした救済活動に携わっているうちに、琵琶湖湖畔に住みたい気持ちがふくらみ、今年3月に引っ越しました。引っ越しに当たっては、仕事や費用が問題になるのですが、とてもスムーズに事が運んだのです。
仕事は会社とお客様との縁結び、――ご縁という目に見えない糸で結ばれているのがこの世の中であるのなら、全ては赤い糸の出会いから始まるのだと思います。
先祖の存在を感じ
自分の先祖がこの琵琶湖湖岸に眠っていることを考えてみると、自分がこの世に誕生するまでには、とてつもない数の、先祖の皆さんがいることに気付きました。もしそのうちの一人でも欠けたら今の自分は存在しないんだと思います。かつて、そのうちの一人から直接指導をいただいたような体験をしました。
法事で実家に戻ったときでした。法事の席に着くと「シャキッとせんか、このバカ者」と、どこからともなくどなり声が聞こえ、ハッと見まわすと、かつて見たことのない先祖の写真が置かれており、まるで私の方を見ているようでした。この写真を見たのは後にも先にもこの一回こっきりでした。
このとき、両親にこの写真の先祖について聞きましたが、何だかよく分からない答えが返ってきただけで、この先祖は私を叱咤激励しに現れたんだと感じました。他にもたくさんの経験をしましたが、事あるごとに先祖の皆さんのチェックを受け、支えられている気がしました。
自分がこの世に誕生するためには気が遠くなるほどの出会いの数があり、気が遠くなるほどの数の先祖がいる。――その先祖の元をたどれば、そこから枝分かれしている自分につながる子孫の数は、天文学的な数字になり、これまで実感がなかった「世界は家族、人類は皆兄弟」という有名なフレーズの意味がわかりました。
赤い糸はゴールではない
赤い糸は単なる結婚ではありません。出会いを間違えるとボタンの掛け違え程度では、すまなくなるということです。
幼いころから両親の姿を見ていて、あんな夫婦にはなりたくないと思ったものです。特に母の、今は亡き父に対する言葉使いや、私に対するヒステリックな言葉などから、結婚することが、だんだん嫌になりました。でも、頭を取ってから三法行を繰り返すうちに、無理して結婚するより、一生独身もいいかなと思えるようになり、身体が軽くなりました。自分がやるべきことに集中できるようになったら、ワクワクすることが増えてきました。
そんなころ、妻と出会いました。母のようなタイプとは違う女性と結婚したいと思っていましたが、やはりどこかしら似た相手と出会うものだとも思いました。
赤い糸はゴールではなく、乗り越えるべきことも多くありますが、ケンカを重ねて、「雨降って地固まる」のことわざのように、互いに寄り添えるようになりました。
先祖に、家族に、妻に支えられて、今の私があります。自然の法則に沿って、これからも共に感謝とよろこびいっぱいで赤い糸の道を歩ませていただきます。