私にとっての両親は、とにかく「働き者」。父は山梨、母は長野の山深い田舎で生まれ育ったせいでしょうか、正直で真面目な両親です。家族のため、子供のために、身を粉にして働いていた姿は、強く記憶に残っています。実家は、山梨県の山里にあり、私が子供のときには、養蚕や田んぼなどもやっていて、早朝から日が暮れるまで、両親は動き詰めでした。
家族7人を養うために勤めに出た父
父方の祖父母は体が弱かったため、父は、中学校を卒業後、祖父母と4人のきょうだい、曽祖母の7人を養うために、親戚の建築会社に勤めに出たそうです。そこで、黒部ダムの建設に携わり、何人もの方が命を落としたという十字峡で、危険と隣り合わせの仕事に就いていたこともあったといいます。
21歳の若さで家を建て
頑張り屋で家族思いの父は、21歳の若さで、大工さんに注文して家を建ててもらったそうです。その家は、43年を経て、今も家族のより所となっています。
父自身、大工として働いた時期もあり、私が中学校に上がるときには、仕事から帰ってくると、3人の子供たちのために、自らの手でコツコツと子供部屋を作ってくれました。その姿は、今でも私のまぶたに焼き付いています。
妻を亡くし、7人の子を育てた祖父
母は、幼いときに、母親を亡くし、父親に育ててもらったそうです。祖父は、男親にして、食事の仕度から針仕事までこなし、7人の子供たちを愛情いっぱい、一生懸命に育ててくれたと聞きます。
母も、中学校を卒業すると、就職をし、長野で働いていた父と出会って、結婚したそうです。
多いときは12人家族で
それから、長女の私、妹、弟の3人の子供が誕生し、山梨の家には、いちばん多いときで、12人家族が暮らしていたことになり、本当にすごいと思います。父も母も家族のために汗水流して働いてくれ、自分にはまねのできないことだと改めて感じ、熱いものが込み上げてきます。
天と出会い、父に感謝できるように
そんな父には、お酒が入ると人が変わったようになり、母に暴力を振るったり、大声を出したりするという悪い癖があり、私たちきょうだいは、子供のころから父には複雑な気持ちも持ち続けていました。
平成7年、私は、夫が大自然の法則と出会ったことから、頭を取り、長い間心の中にあった父を責める気持ちをぬぐい去ることができました。父は、実家の癖を父の体を通じて表現していたのだと気付かせていただくことができ、父もつらかっただろうと、やっと素直に父に感謝できるようになったのです。
両親はかけがえのない恩人と思えるように
父と母は私に続いて頭を取り、富士をいただく山梨の田舎で、母は天華十法(てんかじゅっぽう)を、父は法筆行の繰り返しをやらせていただいていました。
父は一昨年、77歳で旅立ちましたが、その顔は生前見たことがないほど安らかで、大往生そのものの姿でした。雨上がりでもないのに空には虹が架かり、父が人生をやり終え、天上界に行ったことを、自然の法則をつかさどる天が祝福してくれているかのようでした。
天との出会いを果たして19年、今では父も母も私にとってかけがえのない恩人だとおなかの底から感謝できるようになりました。それが、今の私にとって最高の財産です。
家族の歩む道も整って
お父さん、お母さん、私たちきょうだいを生んでくれ、育ててくれて、本当にありがとうございます。
お父さん、お母さんとの出会いがあり、天と出会うことができました。その後の自然の法則に沿った毎日により、家族の歩む道も整ってきています。私を通じて、三法行を喜んでやる方も出てきました。これからも、お父さん、お母さんのご先祖さまがもっともっと喜んでくださるように、家に流れるものをきれいにするお手伝いを一歩ずつやらせていただきます。