私は、戦争の激しくなる少し前の昭和18年、東京で、5人きょうだいの4番目、双子の姉として産声を上げました。双子だったのですが、妹と違い、大変におとなしい子だったそうです。
父親の実家は、古いしきたりを重んじる旧家だったため、実母は双子を産んだことを非常に恥じ、買い物に行くときには、隣家に私を預けて出掛けていたようです。
隣家の養子になり
その延長で、実母は1歳の私を隣家に預けたまま遠方に、私以外の4人の子どもを連れて疎開してしまい、私は隣家の養父母に面倒を見てもらうことになったのです。
後日、養父母は、戸籍謄本を見て、いつの間にか私が養女になっていたので、びっくりしたと言っていました。そんな境遇の私を、7歳のときに養子になった12歳上の兄は、優しくかばってくれました。
両親と家族に再会したとき
養父が穏やかで優しい人だったのとは対照的に、養母は美人で頭も良かったのですが、気が強くわがままな人で、兄はそんな養母といつも言い争いになっていました。
それでも、養父母は、私が中学校のとき、私を北海道まで連れていき、転地先にいた両親と家族に会わせてくれました。蒸気機関車で青森まで行き、青函連絡船で北海道に渡りましたが、今では考えられないような旅程でした。
事実上、初めて妹と対面するので、ドキドキしていたのですが、会うと私と同じ顔が目の前にいるので、照れくさくて戸惑ったことを思い出します。
両親に対しては、複雑な思いで、うれしいとは感じられず、その後も、「何と冷たい両親だろう。他人に会っている方が良い」と思ったくらいでした。では、養父母に対してはというと、「人の良さと責任感の強さだけで私を育ててくれた」と感じられ、感謝の気持ちはあまりありませんでした。
その後の妹とのやりとりは、私に妹へのひがみがあるせいで、少し仲の良い友人の域を出ませんでした。妹は明るく積極的な性格でしたが、私はその正反対でした。
そんな私を見た実母は、養父母の家に来るたびに、私の前でいやみを言うので、私はそのうち、実の両親との交流をやめてしまいました。
類の法則から結婚へ
東京への空襲は激しく、養母は空襲の度に水辺を求め、湿地のこけむした石に足を取られ滑りそうになりながら、底なし沼の底の方にまで行き、降りかかってくる熱い火の粉に激しく泣く私の体に沼の水を掛けてくれました。
私は、養女であっても私の命を守ってくれている養父母のことを思うと、悪いことはできずに大きくなりました。時折、自分のことを悲劇のヒロインのように思っては自分自身を慰めていたものです。子どものころのことは、私の記憶に深く刻まれています。
子どものなかった養父母は、兄を大学まで、私を短大まで進学させてくれ、卒業後、兄は公務員に、私は、大手の銀行本店に7年間勤務し、私はそれから、ある部署を任されるまでになりました。
その後、ある会社に勤務していた友人の退社に伴い、頼まれて友人の後任としてその会社に転職し、そこで今の主人と出会い結婚しました。主人も、誕生と同時に母親を亡くし、父親の妹の養子として育てられていた人で、不思議な縁でしたが、今思えば、類の法則そのものだったのです。
苦難の数々が続き
結婚後は、東京都心に住み、息子を一人授かりました。平凡な家庭生活を送れるという期待と裏腹に、息子が5歳のとき、主人の仕事上のことから想像だにしなかった苦難に襲われ、幼い息子を知人に預けて奔走する毎日を送るようになりました。そうした生活から解放されたのは、実に、息子が15歳になったときのことでした。
ようやく一家で生活できるようになったころには、年を取るに従って、精神的に不安定になっていった養母の面倒を見に、私は郊外の実家に通うようになりました。
しかし、明治生まれの養母が85歳のとき、やむにやまれず、私は大きな決断をし、養母を老人ホームで世話してもらう手続きをしました。入所先の養母から、激しい感情をぶつけた手紙が届いたのは間もなくのことでした。「こんな仕打ちをされるとは! 何のためにあなたを育ててきたのかしら!!……」
私は、これ以上養母を悲しませまいと強く思い、仕事の合間を縫っては養母のところに、主人と息子の了解を得て、土日は、終日行かせてもらいました。「これで良かったんだねぇ。そうじゃないと、あなたの方が持たないよねぇ」と養母は言ってくれ、感謝の言葉を言い、90歳代で他界しました。
自然の法則との出会い
私が自然の法則に出会わせていただいたのは、それから数年後のことでした。いろいろな大変なこと、つらい出来事が起こる度に、知人が、「あなたが変わらなければ、何も変わらない」と法則を説いてくれました。知人は、書店で自然の法則の本に出会っていて、すばらしい本が書店にあるから、ぜひ読むようにと勧めてくれたのですが、そのときには、探しても見つけることができずにいました。
私は、仕事上の悩み、家庭の悩みを抱える中でも、人から相談されることも多く、ストレスをため込む毎日でしたので、月1回~2回、有名なお寺に行き毛筆で写経をしていました。写経をしているときは、一時静寂の中で心が穏やかになり、それから現実の生活に帰っていました。
超写経で温かいものがおなかからわいて
そんなある日のこと、ある友人と待ち合わせをして落ち合うと、先に待っていたその友人がとても楽しそうに分厚いノートのようなものにせっせとペンを走らせているので、見ると、写経のようでした。
私はびっくりして、どうして国語の練習帳みたいになっているのか、筆で書かないのかなどと聞いてしまったのですが、友人が「超写経」について説明してくれ、写経に親しんでいた私もやり始めました。「七観行(ななかんぎょう)ってすてきな言葉ね。写させてください」と言ったことを思い出します。
やり始めると、お寺の写経と大きく違っているのが次第にわかるようになりました。お寺の写経は、静寂の中で心静かに、集中し一字一字ていねいに書き、書き終わった満足感はありましたが、それだけでした。
けれど超写経は、「お父さん、お母さん、最高です」と口ずさみながら1巻書き終えると、何とも言えない温かいものがおなかの中からわいてきます。その日によって違いがありますが、涙が出てきたり、字が躍っていたり、うれしくてにこにこしてきたり、ボールペンがどんどん進んでいったりといろいろ感じさせてもらえ、書きなぞるのが楽しくなってきます。家でもどこでも書け、私は気分が落ち込んだときなどにも書きなぞっていました。
超写経で家族も変わり
一日のスタートの朝書くのですが、朝忙しいときには、家に帰ってから書き終えます。このように気楽にやることができることと、何かうれしい気分になれることのほかに、もっとうれしいことがありました。それは、家族の変化でした。
私の主人は気難しい人で、私は主人の顔色を見ながら生活をしていました。それが、私が超写経をするようになってからは、家の空気が自然と変わってきて、主人が穏やかで優しくなってきたのです。
仕事で私が遅くなり、食事の時間が大きくずれると、主人の機嫌が悪く、いやな雰囲気になっていたのですが、今では電気釜のスイッチを入れてくれるばかりではなく、おかずまで用意しておいてくれるようになりました。
本当に感謝していることが、まだまだたくさんありました。私は養女で、息子は私の実の母と33年間会ったことがありませんでしたが、会ったこともない叔母たちとも含めて、思いがけずに感動の対面をすることができたのです。
超写経は、自分が変わって楽になって、周りまでも自然に返らせてくれるすごい力があるのだと、改めて感じさせていただいています。
健康や仕事にも恵まれて
その後、私は頭を取る過程を歩ませていただき、偶然ではない大いなるものの意志に導かれた法則を感じ取らせていただくことができました。
大自然をつかさどる天の懐に抱かれて、繰り返しの行をやらせていただくようになると、自然と素直になれ、自然体の自分になっていました。たのしく、楽だなぁと思えるようになるんですね~! 病気がちだったのが、すっかり健康にもなれました。
仕事面でも出会いが変わってきて、大きな仕事ができるようになったのですが、力まず気負わず、楽しく仕事をさせていただいています。
私の人生は、恩ある友人から「あなたは小説が書けるくらいの人生だったのね」と言われるくらい、波乱万丈でしたが、大自然の法則に出会わせていただくのに必要な道のりだったのだと今はわかります。
先祖・家族や周りの方に感謝いっぱいで、以前の私からは想像もできなかったような、楽しく充実した毎日に導いてくれた三法行を、ぜひ皆さまに体験していただきたいと思っています。