私は昭和22年、広島県の農村に生まれました。当時の交通事情というと、今のような舗装道路は皆無で、全てが砂利道でした。車と言っても、オート三輪かオートバイ(二輪車)が一日数台通る程度でした。小学校への通学は、片道5キロメートル余りの距離を、天候に関係なく、徒歩で毎度往復。ランドセルを背負って、途中立ち止まったり、遊んだりして通学していたため、低学年のころは片道90分くらいかかっていました。
中学、高校は同じ道を、自転車で通学しました。家に帰っても、あまり休むこともなく家の手伝いをさせられました。当時は水道はなかったので、風呂に水を入れるときは、家の裏の池から、バケツで水を汲んで運んだり、また牛に餌を与えたり……と、子どもにとっては結構重労働でした。しかし、そのおかげで足腰は強くなり、小学校6年間で休んだのはわずか3日だけということで、卒業のとき、精勤賞をもらいました。
当時は今のように温暖化の影響もなく、四季がはっきりしていて、春夏秋冬それぞれに季節感がありました。桜、菜の花から新緑が周囲を覆う春。入道雲と雷と激しい夕立、そして雨上がりの山のふもとにかかる虹、セミの鳴き声に包まれる夏。豊富な山の幸に恵まれた収穫の秋――秋祭りのごちそうと同時に、何となく感じる、もの悲しさの漂う秋の風情。冬は、冬休みあたりからほとんど毎日のように雪で軒下には大きなツララが下がっています。――不便さはありましたが、明瞭な自然の変化の中で、内面の豊かさがありました。
両親への反発心
そういった環境下、私は家の次男として生まれた訳ですが、私が生まれる前に、長男が5歳で亡くなっていたため、実質、私は三人きょうだいの一番上となり、跡取りとして、厳しく育てられました。「お前は家の跡継ぎとして、釜戸の灰までお前のものになるんだから、弟・妹とは違って家の手伝いをして当然」という感じでした。うちは農家で、稲作とタバコ栽培もしていましたから、その手伝いもよくさせられました。
両親とも非常に真面目で働き者でほとんど遊ぶということはなく、当時田舎では娯楽はあまりありませんでしたが、働くことに生きがいを感じていたのかもしれません。母も父には逆らうこともなく、父を立てているところに、私は少々封建的なものを感じていました。特に私たちが子どものころの教育は、戦後の敗戦国としての民主教育の影響もあり、封建制度は悪、民主教育は善、もちろん戦前も悪、欧米は先進国、何でも正しいという風でしたから、私は両親の考えと学校教育と、他の情報の間にギャップを感じていました。
また、私は小さいころから、家の手伝いをさせられ、夢中になって遊んだりすることもなく、友達とのコミュニケーションも苦手だったところに、家の跡取りという重圧も加わり、14歳ころから両親に反抗するようになりました。学校で習う民主主義でのように、もっと自由になって、夢のあるこの人生をのびのび生きたいと思えば思うほど、頭がついている私にとっては、今から思えば自分で自分を縛るという苦しみの連続で、口答えしたり両親を心の底から恨んだりしたことも数えきれないくらいありました。
まじめで働き者の両親は、同時に、私にとっては頑固の塊で、私の希望は一切無視。――私は、農家の跡取りということで、高校進学は地元の高校の農業科、社会人としての就職も農機具関係、結婚は両親の承認による見合い……といった具合。口答えしたり、物を壊したりして反抗する割には両親には逆らえない自分がありました。
高校卒業後に広島市へ就職した時は、目の上のたんこぶの両親から解放された喜びの方がはるかに大きかったです。しかし、その就職先での仕事にも慣れ順調に行き出した矢先、父が病気で入院したため、地元に帰り、家業の農業を手伝いながら、仕事という中途半端な生活になりました。
そのころ私は大学へ行きたいという思いが強く、通信教育で大学の経済学部へ入学しました。両親、特に父は、農家の跡取りに屁理屈ばかり教える大学は必要ない、そんな暇があったら、家の手伝いをしてくれと言っていました。そういうことで、両親から大学へ入学したことは喜んではもらえず、学費、スクーリング等精神面そして金銭面の援助は一切ありませんでしたが、全て自費で仕事をしながら6年で無事卒業できました。
その後、大変な病気になる44歳までの30年間は、両親に対しても家に対しても、何か煮え切らず、不平不満が、マグマのように心の中で、くすぶっていたのではないかと思います。仕事をしていても、頑固者の両親と、家の跡取りとしての重圧から、心の中で何度も両親に暴力を振るうことは何度もありましたが、実際にはじっと我慢して抑えていました。両親への反発心が高じてくると、不思議ととてつもない巨大な何かによって抑えられるのを感じました。
大病から気付きへ
その30年間の私の生きざまの結果でしょう、私は44歳のとき、その当時では治癒が極めて困難な「再生不良性貧血」という病気になりました。初めは大した病気だとは思っていなかったのですが、百科事典で病名を調べたところ、大変な病気だということがわかりました。数年で死に至る病気だということでした。その時は数値も軽度の状態だったのですが、病院で検査のたびに数値は悪くなる一方で、1年ぐらいで、輸血が必要な状態になりました。何とかならないかと人づてに聞いたりして、サプリメントや電気治療なども、試みましたが一時的に良くなったように見えても、一向に数値は回復することなく悪化の一途をたどり、死に向かって一直線の自分を感じました。
1冊の本と出会ったのはそんな時でした。それは、『エイズは怖くない』といったタイトルの本でした。当時エイズは死に至る病気の最たるもので、マスメディア等でも大きく取り上げられていましたから、私は自分の病気はエイズよりはましだと思い、わらをもつかむ思いで、書店に1冊しか残ってなかったその本を買い一気に読みました。それがきっかけで、頭を取ることができ、三法行(さんぽうぎょう)にも出会いました。
「三法行と出会ったあなたは最高です。願わず 求めず 頼らず ただ繰り返し行りなさい」――私は頭を取って、不思議とその言葉を受け入れることができ、毎日毎日その教え通りに三法行を繰り返しやりました。また、私はなぜその家に生まれたのか――それは、「自分の意志ではなく、天によってその家に出会わされた。あなたの生命体としての生きざまが、その家を必要とした。あなたには出会った家を正常にする使命がある」ということでした。「そうか、私の前世の生きざまがこの家を必要とした以上、この現実を素直に受け入れなければならない。そこから逃げるわけにはいかない。ただ繰り返しやるしかない。そうすれば道が開けるかもしれない」――こう思って、願わず求めず頼まず、ただ繰り返しやる自分がありました。
今の自分は先祖5代前と自分の生きざまを背負った今の結果である以上、根本的な解決方法はその原因をなくすこと、つまり出会った家の大掃除は避けては通れない。そのための繰り返しの行も行らせていただく中で、悪化の一途をたどっていた数値が、300日目くらいから少しずつ好転してきて、700日目には自分でも驚くくらい数値がよくなり、そして1000日目には健康上全く問題ない、ほとんど正常といっていいところまで数値が回復したのです。1冊の本と出会って頭を取ってから3年余り経過した時でした。
それから18年、もちろん健康そのもの、数値は正常値そのもの、今も三法行は生活の一部として繰り返し、よろこびいっぱいやらせていただいております。なぜ21年間も続いたのか、そしてこれからも続けるのか、今まで21年も続けてこられたのは、病気が治って健康になったことも、理由のひとつに挙げられますが、それだけではありません。
頭を取る前の自分は、前にも述べましたように私自身いろいろ問題を抱えておりました。同時に物事にこだわり、肚から喜べない自分、物事を頭で解決しようと思う、頭のついた自分がありました。そのため、目は見えても物事が見えていない、耳は聞こえても聞こえていなかったと言っていいでしょう。頭が取れてこだわりがなくなった今の自分と比較すると、正反対です。
頭が取れて、こだわりがなくなったから、ただただ繰り返し三法行を喜んで繰り返してくることができたのだと思います。
逆境こそチャンス
でも、今の状態でゴールではなく、やるべきことはたくさんあります。
天から示された人間生命体の三つの使命――「①出会った家を正常にする。②自分自身の人間完成。③子供子孫の繁栄とともに、人類の真の繁栄と人類救済の実現」――以上の目標に向かって今後も繰り返し歩ませていただくだけです。
自分の人生を振り返ってみるといろんなことがありました。楽しいこともありましたが、苦しいこともたくさんありました。その苦しみは表面的にはマイナスでしたが、私は決してあきらめませんでした。その結果、そのマイナスこそ知恵の源泉であり、肥やしとなって、あるいはバネとなって、今後の人生にいかされています。ですから、今ではあの頑固な両親にも不治の病といわれた病気にも心から感謝しております。
2012年、京都大学の山中伸弥哉教授が、人間の細胞初期化を可能とするIPS細胞の開発という、人類の病気治療に無限の貢献が期待される偉業を成し遂げられ、医学生理学の分野でノーベル賞を受賞されました。山中先生は大学医学部卒業後、外科医として施術に当たられましたが、手先が不器用なため、他の医師の何倍も時間がかかり仲間から「ジャマナカ」と呼ばれ敬遠されていたそうです。自分の能力の限界を感じた先生は、違う方面で何回も失敗を繰り返しながらでも、それにめげることなく、医学界の大きな発展の礎となる功績を残され、ノーベル賞受賞になりました。これは山中先生が不器用という欠点をバネにして頑張ってこられたことによるのではないかと思います。つまり欠点はマイナスではなくプラスへのチャンスであり、それを乗り越えることによってチャンスが生まれたということだと思います。
天声は、「人生に行き詰まりはない。あるのは頭の世界だ」と伝えています。
私の体験を一人でも多くの方に知っていただきたいと思っています。