大自然の法則と出会い二十年余りになりますが、その少し前までは、平々凡々とした人生でした。
両親、祖父母、弟がいて、それほど不足を感じる訳でもなく、高校を卒業して地元に就職し、結婚して3人の子供に恵まれ、優しい夫としゅうとめと暮らしていました。
暴言を吐いた後、何かがガタガタ崩れ
そんなある日のこと、私は、友人たちとの食事会で、「夫も子供も思い通り。お金も不自由なく、人生ここまでくれば大したことない……」こんな暴言を吐いていました。今にして思うと、生かしている主は、私のそんな言葉をしっかり聞いていたのですね。その後から何かがガタガタ崩れた気がします。
しばらくして、長女が大変なことになりました。そのころは、家が近づくと、背中が、スーッと寒くなるような感覚を覚え、「家に入りたくない」と立ち止まってしまうこともありました。
突然の娘の異変
長女は3人の子供たちの中で一番上だからといつも押さえつけていたからでしょう、手のかからない、大人しい、いい子でした。高校3年の夏休み講習を受けに学校へ行っていた娘は、ある日、いつもより早く倒れるようにして帰宅するなり、先生に病院へ行くように言われたと言うのです。
私は、そのときまで娘の体調に気付いていませんでした。夜眠れない、動悸(どうき)がする、めまいがする、そして、体重がぐんぐん減っている、生理が止まっている……。
私は、「子供は勉強さえしていればいい。いい学校へ行き、いい会社に就職してお給料がたくさんもらえればそれが一番幸せ」と思っていました。一にも二にも勉強、家の手伝いはしなくていい……。風邪を引いて休むと、優しく看病どころか、怒っていました。私の価値観が正しく絶対であり、娘の意志を尊重するなど、とてもできませんでした。
娘は摂食障害とわかり
夫は教師で、私は何代も続いた店をやっていました。以前はしゅうとめが店をやっていましたが、長女が小学生のときしゅうとめが亡くなった後は、私が継いでいました。店は繁盛し、忙しいのでパートでおばさんに手伝ってもらい、家事も午前中人材センターから派遣の人に頼んでやってもらっていました。そして長女が具合の悪くなったときは、一年で一番忙しい時期でした。
長女は、近くの個人病院では原因がわからず、ようやく、大学病院で摂食障害という病名がわかりましたが、ホッとしたのも、つかの間で、難病と知りました。何とかしたい一心で本を読み、書店になければ、ぶ厚い医学書を注文して読みました。
わかったことは、「完治は難しい。治っても精神障害が残る、うつがひどくなると自殺を図ったりする。そして一番の原因は母親との関係である」と……。半分も読まないうちに具合が悪くなり本を閉じました。
数年間はイバラの道に
しかし、娘の状態とは裏腹に、「一刻も早く退院しないと卒業が危ない。せっかく進学校に入り、もう少しという、ここでつまずいたら大変」と、娘を気づかうより何とか卒業させることの方が大事に思えたのです。
無理して退院した娘は、母親の期待に応えようと、やせて冷えた体にムチ打つように頑張り、やっとのことでクラスメートと一緒に卒業できました。
しかし、それからの数年間は、娘にとっても、人間として親として器のなかった私にとっても、イバラの道になりました。娘はうつがひどくなり、「自分は生まれてこなければよかった。家族みんなに迷惑かけている。いなくなればいい……」と、出てくる言葉はマイナスばかりでした。
娘と向き合って一歩一歩
途方にくれていたころ、1冊の本との出会いがありました。一晩で読み終え、1ヶ月後には問題の原因である「頭」を取りにいきました。
目からうろこが落ちる体験の中で、私は、「人生ってすごい!! 生きることってすごい!! 何を今までクヨクヨしていたの!!」と中からわいてくるよろこびが止まらなくなっていたのです。
「自分で生きているのではなく、生かされている」
家に帰って私は、ひたすら、三法行(さんぽうぎょう)とともに、家に流れているものを変える繰り返しをしました。
ある日、自分の肩の荷が、スーッと軽くなるのを感じました。「娘、長男、次女を、そして夫までも自分の思い通りにしようとしていた私は、いっぱい握っていた。自分で生きているのではなく、生かされているんだ」――そう気付きをいただいたのです。
娘と向き合い始め
それからしばらくしてから、私は娘と向き合い始めました。行の繰り返しで私に受けとめる器ができてきたのがわかったかのように、娘がそれまで中に押さえ込んでたまっていたものがあふれ出てきました。「小さいころ、ああだった。こうだった……」。私に対しての不平不満がせきを切ったように出てきました。
そして、「一生お母さんとは呼ばない」という娘に対して、まだまだ自分がある私は、立派な妻であり、立派な母でありたかったので、一生懸命弁解し、言い訳ばかりしていました。また、1時間も2時間も娘と向き合った後に、疲れ果て、ともに泣いていました。
引きこもっていた娘と外で食事ができ
私は3年間ほど家を離れて行の繰り返しをしました。そのころ、娘とは電話で話をしていました。家事をし、夫と長男の世話をし、私の代わりをしてくれていました。でも、実家の両親からの怒りも娘に向けられていたので、電話口で私を責め立ててきました。
ところが、ずっと会うことを拒んでいた娘が、突然会いにやってきたのです。
2年振りに会う娘から出る言葉は不平不満、愚痴だらけでしたが、「レストランで向き合って食事をしている!!」と、夢のようでした。発病以来、娘は引きこもって、自分の部屋で食事をしていたのです。
娘のつらさ、苦しさにおもいを寄せることができ
それから3年振りに家族の元へ戻ると、娘と向き合うことが、また始まりました。娘は毎日のように、自分が大変だったこと、小さいときのことを並べ立てました。「過ぎてしまったどうしようもないことをいつまで聞かされるの? 一生続くの?……」。泥沼のような状態で、2人とも泣いてばかりでした。
しかし、ある日、ふと気付きました。行をしている私がこんなにつらいのに、何も行をしていない娘はどれほどつらいだろうか? 「苦しい?」と、ようやく娘のつらさ、苦しさにおもいを寄せることができました。「そうか、つらかったね。苦しかったね。大変だったね……」。素直に、「ごめんなさい。そんなおもいさせて」と、心から謝ることができました。娘は、「ただ聞いてもらえるだけでいいの」と言っていました。
それから毎日「そうか、そうか、ごめんなさい」と聞けるようになりました。それで娘の気が済むのなら一生聞く、というおもいになりました。
娘のおもいが変わり、「お母さん」と呼んでくれて
それを境に娘と話し合う時間が短くなり、娘の方から、「過ぎたことをいつまで言ってもしようがない」と言うようになりました。
娘は次第に外に出られるようになり、買い物に行ったり図書館に行ったりしていました。私が免許を取り、一緒に買い物にも行くようになりました。そしていつの間にか、「お母さん」と呼んでいました。「すご~い!! 変われば変わるものだなあ~」と思いました。
娘の私への信頼が回復して
娘のその後の変化は著しく、対話の内容が、自然の法則になっていたり、読んでいる本が、私の言うことと同じことが書いてあるなど、法則の話をするようになったり、家事も手伝ってくれたりするようになりました。娘は世界中のみんなから反対されても、お母さん一人が認めてくれたら十分と言ったこともありました。娘の私への信頼は回復して、元気になっていきました。
そのままの娘を受け入れられるように
そんなある日のこと、あさなる会の帰り、車を運転しながら天声聖歌を聞いていると、娘に対するおもいがこみ上げてきて涙が止まりません。――小さいころからよその子と比べたり、非難したりして、至らない親をしていました。母親の自分が守らないで誰が守るの? そのままの娘を認めよう。そのままの娘を受け入れよう。――娘から出るマイナスの言葉に一喜一憂していましたが、マイナスが出たっていいじゃないか。そんなときもある、と思えたのです。
娘が仕事を決めて
それからしばらくして、夫が私の活動を理解してくれず、ショックのあまり布団についていると、娘が枕元で、「自分が働くから、お母さんはこれから、誰にも遠慮しないで、思い切り自分のやりたいことをすればいい」と言ってくれたのです。
そのときは娘の言葉はピンときませんでしたが、娘はあっという間に2つ面接をし、仕事を決めていました。あまりに突然で、何日か後にようやく「すご~い、すご~い、夢みたい」と心の中で叫んでいました。
娘たちが三法行をやるように
今、娘は仕事が大変と言いながらも働いています。昔とは反対に、娘がいろいろ援助してくれています。娘の立ち上がるエネルギーになった夫にも感謝です。あまりに突然に長年のおもいが実現し、ビックリです。
さらに、2人の娘たちは、三法行を実践するようになりました。
「最高の喜びが源(わ)いたら全て決着」
本当に「観(おも)いが先、答えが後」なんですね。ただただ三法行を繰り返し、家に流れているものを変え、自分が変わり、周りも変わってきました。
「最高の喜びが源(わ)いたら全て決着」の天声そのままの体験をさせていただきました。これからも、この体験と、生かしている主、天との出会いのすばらしさを皆さまにお伝えしてまいります。