私は、昭和12年、山形県の小さな村の農家に生まれました。祖母・両親・きょうだい8人という大家族で、12人家族の食卓はいつもにぎやかでした。馬、羊、ヤギ、ニワトリがいつも身近にいて、庭には、柿、クリ、梨など、実の成る木がたくさんあり、私は学校から帰ると、木に登って柿を食べるというおてんばでもありました。
12人家族、質素でも幸せに
父も母も寛大で、あまり子供に干渉することなく、のびのびと育ててくれたように思います。
父は村の人たちの上に立つようになっても腰が低く、他の人のことを考え、人のために動く人でした。しかし、父は、祖父から保証人としての多額の借金を受け継いでもいました。そのため、ぜいたくはできず、食事も質素なものでしたが、家族にはいつも互いを思いやる優しさが満ちていて、私は幸せそのものでした。
お金が入ったかと思うと夫が使い込んで
そんな家族の中で当たり前の生活していた私でしたが、結婚を機に人生が大きく変わったのです。伴侶となった夫は、私とは正反対に、家が雑貨店で、親一人子一人という家庭環境にありました。しゅうとめと夫と3人家族で雑貨店での暮らしが始まり、お菓子や生活用品は飛ぶように売れるのですが、お金が入ったかと思うと夫が使い込んでしまったりで、いつもけんかが絶えませんでした。
8人きょうだいで一つの物を分け合って食べてきた私に対して、夫は、むしゃむしゃと一人で食べるので、当初、私はとても驚いたものでした。優しい性格でしたが、一人息子でわがままに育ったところが見て取れ、義母の教育は失敗だったと思ったものです。
宗教に入信したものの変わらず
その後、私は、娘と息子を授かり、かわいいからと言って、何でも欲しいものやお金を与えるのではなく、一人の人間として尊重しながら、成長して自立できるようにという思いで子育てしました。夫としゅうとめに振り回され何度も離婚を考えましたが、子供のことを思うと置いていくことはできません。悩みに悩み、円形脱毛症になったりして、苦しい日々でした。
私は何とかこの苦しさから抜け出したいと、心のより所を求め、ある宗教に入信しました。講演があれば足を運び、何か起きると本を読んだりして安らいだ気持ちになったと思っていました。しかし、苦を刻む自分自身を変えることはできませんでした。
自動車事故後も夫のわがままが続き別居へ
そんな折、夫は、自動車事故で死のふちをさ迷うほどの大ケガを負ったのです。しかし、奇跡的に命は助かりました。けれども、頚椎(けいつい)損傷という重度の障害で、日常生活に人の助けが要るようになったのです。
私も最初は夫の面倒を見ていたのですが、まだまだ夫のわがままは続いていました。嫁いでいた娘と相談の末、ついに、夫のためにも離れた方が良いと、別居を決意しました。そうして私は一人で生活するようになり、苦しい状況から解放されました。ところが、頭の中は置いてきたしゅうとめと夫のことが気になっているのでした。
娘が「頭」を取って明るく変わり
子供が弱くて入退院を繰り返し、苦労していた娘が、すっかり明るく変わったのは、そんなある日のことでした。
問題の原因を作っているのは自分自身で、その自分を変えるために「頭(こだわり)」を取ってきたと言うのです。
夫のことで苦労している私の様子をかねより心配していた娘は、私も「頭」を取って楽になって欲しいと熱心に話をしてくれるのですが、私はそのとき入っていた宗教もあり、受け入れませんでした。
大いなるものの存在を感じて「頭」を取りに
それからしばらくして、私は運転中に乗用車とトラックと2台に衝突し、車が大破するという大事故に遭ってしまったのです。
幸い、身体には傷ひとつなく、まるで奇跡のようで、おぼろげながらも大いなるものの存在を感じた私は、これを機に、「頭」を取りに行く決心をしました。
頭が取れた私は、それまでいかにこだわりを持っていたか気付づかされたのです。
「この家に出会い、ありがとう」というおもいに
嫁いだときから、何でこの家に出会ったんだろうと思っていました。しかし、「頭」が取れると、出会うべくして出会った家だと感じ取ることができるようになりました。
私にとって必要なさまざまな経験を通して、困難を乗り越える道のりを、大自然をつかさどる天が与えてくれていたことに気付いたのです。
それまでは、不平、不満ばかりだったのが、その後、三法行の繰り返しをしていくに従い、「この家に出会い、ありがとう」というおもいに変わってきたのです。
先祖が喜んでいるのが感じられるように
すると、不思議ですが、そのおもいが伝わったのか、夫もしゅうとめも「頭」を取り、家に流れているものを変えていくと、先祖が喜んでいるのが感じられるようになったのです。
人生は出会いで決まること、結婚の出会いを間違えると、自分だけではなく、子供・子孫にまで影響を及ぼすことに身をもって気づかされました。
加藤家の先祖を遡ってみると、実は、三代に渡って出会いの間違いが繰り返されていたのです。しかし、この代になって、天と出会いを果たすことができ、家に流れているものを変えることができたのです。
しゅうとめの安らかな旅立ち
私は、嫁ぎ先へ戻り、周りの人たちの冷たい視線に耐えながら、しゅうとめの世話と家族関係の修復と掃除を必死に行いました。
その後の平成13年、しゅうとめは90歳で家族にみとられながら、眠るように安らかに亡くなりました。28歳で夫と死別し、商売熱心で頑張ってきたしゅうとめの姿には、明治生まれの根性と、日本の女性の忍耐強さが改めて感じ取れました。
大腸ガンから快復し
しかし、しゅうとめを見送って1年余り、身体全体の総決算でしょうか、私は大腸ガンになっていることを知らされました。医師7人が付く大手術を受けたのですが、医師の治療ミスにより手術が1ヶ月間延びました。
平成14年6月19日、天の行事の日、私は、カプセルに入って宇宙を遊泳しているような不思議な感覚でベッドに横たわっていました。
快復してくると、毎日喜んで三法行の法筆を繰り返し、気がつくと大自然の法則を周りに伝えている自分がいました。
今は、すっかり元気になり、自分でも驚くほどです。天との出会いがあったからこそ、と感謝でいっぱいです。
実父の大往生の姿
平成16年、実の父は102歳で亡くなりましたが、自分で胸の上に手を組み、「ありがとう、ありがとう」と言い、人生をやり終えた姿の旅立ちでした。天声では、「人生終りと共にその生きざまによって死にざまを実証するためだ」とありましたが、実父も義母もそれを見せてくれたように思います。
夫婦の出会いを修復
平成19年、私たち夫婦は、今の出会いを修復するステップを踏ませていただくことができました。「赤い糸夫婦」とは、「1.両家が救われる道を歩む 2.子孫が繁栄する道を歩む 3.本人同士が人間完成を歩む」と示されていますが、車イスだった夫も歩くことができるようになり、法筆を繰り返せるようになりました。
破滅寸前だった家は打って変わり、家族がよろこびにあふれ、地域の方々のために貢献できるまでの家になりました。
天華食無農薬家族園主に
私は、畑をお借りして天華食無農薬家族園主となり、8年たちました。
私の育った実家を思い出すと、自給自足に近い生活をし、物を買う必要はほとんどありませんでした。ご近所とも生かされ生かし合う毎日でした。
今はと言えば、地面は、コンクリートで覆われるようになり、農薬で土が痩せ、野菜の栄養分も損なわれてきている上、便利さから、また時間に追われて加工品を口にする機会が増えています。
学校では、「食育が大切」と言われるようになってきていながら、なかなか無農薬野菜、米などの使用には至らない現状にあるようです。
天行力(てんぎょうりき)をたっぷり含んだ天華食無農薬家族園の野菜を一人でも多くの方に口にしていただき、皆さんの力になれるようにやらせていただきたいと思っています。
親のあるべき道に気付かされ
私は、今や77歳になりました。人生わかったような気がしたこともありますが、天声では、「人生なめたらいかん。人生解った、解ったと思っていても解っていない。親になったら自分を捨てることに有る」と示されている通りです。
子供も、本当に親の生きざまをそのまま表してくれ、親に本当の道を歩ませてくれるありがたいものだと、折に触れては気付かせていただいています。よろこびいっぱいで、「人生は行(ぎょう)なり」を法則に沿って今後も歩ませていただきたく思います。
「人生は行なり」を全ての方々に伝え
現在は、悩める人々、大自然の法則をつかさどる天と出会わなければならない方々がたくさんいます。地球上すべての人々が気づかなければならないときを迎えていると感じられる昨今です。
本当にいろいろありましたが、天との出会いのすばらしさ、「人生は行(ぎょう)なり」を全ての方々にお伝えさせていただきたいと思います。