私は、福島県で最大の面積を持ついわき市に生まれました。いわき市は、以前映画になった「フラガール」のハワイアンセンター、東日本大震災後も復旧を果たしたスパリゾート・ハワイアンズがあり、昔は炭鉱で栄えた町です。
フラガールの故郷に、4世代同居の家族で
私は、その町で、米・ガス・石油・食料品・雑貨を扱う店を祖母と両親が一緒に営む家の、女・男・女3人きょうだいの長女でした。祖父は、ナシ園・庭木の苗・田んぼを手がけ、私が3歳までは4世代同居の家族でした。
父は男4人兄弟で、女の子が欲しかった祖父母は、私は初孫であったことも手伝い、たいへんにかわいがってくれました。私が生まれる数年前に炭鉱は閉山しましたが、高度成長期で、お店は忙しく、私は生後半年くらいからは、知り合いのおばさんに昼間は預けられて育ちました。
弟と対照的に元気いっぱいで
私が3歳のときに弟が生まれましたが、体が弱く熱を出しては、ひきつけを起こしていました。月に2回は熱を出し病院通いの弟とは対照的に、私は病気もせず元気いっぱいで、祖父母が寝ている間に部屋のふすま全部にクレヨンで落書きをするというおてんば振りでした。
幼稚園に入ると、父にバイクで送り迎えをしてもらっていました。雨の日以外は、父の運転するバイクの前に乗って、父の腕の内側で一緒にハンドルを握っては、父と一緒に運転しているような爽快で楽しい気分を味わったものでした。
新体操でも評価され、スポーツインストラクターに
家は、町の商店街にありましたが、後ろは田んぼや畑があり、近くには、春はメダカ、夏はアユが泳ぎ、秋はサケが上がってくる川もあり、私はいつも田んぼや畑、川で遊び、日曜日は、祖父、父とナシ園へ行き、2人の仕事が終わるまで山野を探検して1日を過ごしたものです。男の子に誘われて、夕方暗くなるまで遊んでは、家に入れてもらえないこともたびたびありました。
勉強は苦手、でも、体を動かすことは大好きで、中学校から始めた新体操も高校になって認められ、社会体育専門学校を卒業後、スポーツインストラクターとしての道を歩むことになったのです。
スイミングスクールの仕事がきつく
スイミングスクールに就職すると、水泳はもちろん、新体操をやってた経験から、シンクロナイズドスイミング、アクアビックスを教えることになりました。
ところが、シンクロやアクアビックはおろか、水泳も、小中学校時代体育の授業で覚えてかろうじて泳げる程度で、入社しての半年間はかなり大変でした。加えて、水の中では、陸上の3倍の体力を使うので、体力に自信のあった私も、休み前日の夜、仕事が終わるころになると、必ず熱を出し休みの日は、1日寝込んでいるということもしばしばでした。
シンクロ強化コーチとして多忙を極め
でも、仕事は楽しく、シンクロでは、翌シーズンの大会に向けて、秋から冬には、曲探し・曲の選曲・編集・振り付けなどで、睡眠時間が3時間程度ということも多く、年が明けるとシーズンに向けて本格的に練習が始まるのでした。
日曜日は朝7時から、平日は夜9時~10時までは会社にいます。夏休みは毎朝7時からの練習と合宿や大会遠征などで忙しい毎日……。入社3年目の平成2年には、5年後に開催される福島国体のシンクロ強化コーチとして、県から委任を受けました。
会社からも、「国体が終わるまでは、もし、いい人ができたとしても結婚はしないで欲しい」と言われ、1日のほとんどは会社で、家に帰ると寝るだけという生活で、男性と出会う機会など皆無でした。
期待されるほどに落ち込んで
受け持っていた子供たちも全国大会に出場できるところまで上達してきたころに、高校時代の友達が結婚し、新居に遊びに行ったときのことです。思いがけずに主人と出会い、それからお付き合いが始まりました。
それから1年が過ぎたころから、父兄や会社からの期待も大きくなり始め、父兄からは、「随分なお金をシンクロに掛けているのだし、家族全員がシンクロの練習に合わせての生活をしているから、全国大会では、絶対上位入賞してね~!」、会社からは、「昨年良いところまで行ったから、今年は上位入賞だな~!」などと言われるようになりました。周りの期待が大きくなればなるほど、私は落ち込んで仕事が楽しくなくなってきてしまったのです。
仕事から逃れたい気持ちで結婚を
仕事から逃れたい気持ちは、結婚への期待感となっていきました。
母が1冊の本を本屋さんで見つけ、それがきっかけで問題の原因となる「頭」を取りにいったのは、ちょうどそのころでした。
主人と連れだって結婚の話をするために実家を訪れたところ、先に頭を取った母の勧めもあり、「赤い糸」目指して、主人と2人で、「頭」を取りにいったのです。
それから約半年後、私は三法行(さんぽうぎょう)の繰り返しができずにいた主人と結婚しました。
国体までは、どんなことがあっても続けようと思ってがんばってきた仕事を、国体まであと1年というところにきて辞め、結婚を選んだ私でした。
体に異常が出、主人との距離も開いて
しかし、入籍をしたと同時に、「私の人生これで良かったのだろうか? もっと違う人生があったのでは?」というおもいがわいてきて、望んだ結婚生活だったはずが、喜べない私になっていったのです。
それから、子供を出産したとき、初めて自分の体に異常が起きていることを知りました。細胞が変形してきているというのです。今の時点では、このまま細胞が正常に戻る人もいるので、様子をみましょう、ということでした。
子供ができてからも、喜べないおもいは変わるどころか、だんだん主人との距離は大きくなり、2年後、2人目を出産して1ヶ月後には離婚の話が出ました。
子供を連れて離婚へ
そんな問題の中、私は、このままでいたら確実にガンになる、精密検査の手術を受けた方が良いと聞かされたときは、目の前が真っ暗になりました。
離婚問題、そして自分の体のこと、3歳と、生まれてまだ3ヶ月の子供の将来と……と、私は不安のただ中にいました。
幸い、検査結果は思っていたよりも良く、手術の必要もなくなったのですが、主人との距離は離れる一方で、半年後、私は2人の子供を連れて離婚しました。
“類は、友を呼ぶ”といいますが、「パワーのある人は、パワーのある人と出会う。喜んでいる人は、喜んでいる人と出会う」というのが法則です。
主人との出会いは、喜んでいるときの会いではなく、マイナスの自分でいたときの出会いだったのだと、今にして思います。
大自然の法則に沿ってよろこびがわき
頭を取って4年後、私はしばらく中断していた三法行の繰り返しを始めました。
それから9ヵ月後には、24時間365日を大自然の法則に沿った毎日を送るために、東京に赴きました。
その過程で、私は不思議とよろこびがどんどんわいてくるようになり、また三法行の素晴らしさを改めて体感させていただきました。そのとき初めて、生まれてきて良かった、大自然をつかさどる「天」と出会い、頭を取って本当に良かったというおもいがわいてくるようになったのです。
子供たちはすくすく育ってくれて
「天」はいつでも優しく大きな愛で見守ってくれていました。
どうしていいか分からないとき、迷ったときなどは「天」と会話をします。そうすると、自然が必ず、いろいろな形で教えてくれます。
大自然の法則と出会っていなければ、将来結婚しても子供か自分の体かどちらかを取るような健康状態、と病院で言われた通りになっていたことでしょう。
「天」と出会って、授かった健康な子供たちは、すくすくと育ってくれました。子供を育てるということは本当に大変ですが、生きていられるよろこび、そして生かされている幸せを強く感じさせてくれます。
両親に感謝できる自分になれて
一歩一歩一前進していく中で、大自然からのメッセージは続きます。子供たちがいてくれてこそ、親として歩むべく大きなおもいになれ、本当に感謝です。
今、私は素直に、「このお父さんとお母さんの娘として生まれてきて良かった」と言うことができます。両親との出会いがあってこそ、主人との出会い、天との出会い、子供たちとの出会い、そして、多くの方々との必要な出会いをいただいています。
「頭」を取って肚から喜べる自分になれたからこそ、今、こうして生かされている私がここにいることが本当に幸せです。
真の赤い糸目指して観魂をわかして
2014年に発刊された『別れなさい。』の本を読んで、新たな衝撃を受けた私は、「真の赤い糸」に目覚める過程を歩み始めました。
高次元赤い糸100日修行に参加し、主人との出会いの汚れが洗い流されているのでしょう、人間の本体である観(おも)いが何とも言えずスッキリとし、そのスッキリ感が、日常生活に戻っても消えないのです。
これからの生活では、今までになくプラスを多く刻んで、追い風に乗って進んでいける、と感じています。修行で体得できた観魂(かんこん)を使う繰り返しの毎日の中で、真の赤い糸の出会いもきっと訪れることでしょう。
両親への感謝のおもいで人生仕上げに向かって
「“お父さんありがとう。お母さんありがとう”を毎日繰り返すことだ。忘れると足元が定まらない。なぜならば天が最初に愛をくれたのは「親の命」との出会いであるからだ」と示されています。
「お父さんありがとう」「お母さんありがとう」の感謝のおもいで、周りの皆さまとともに人生仕上げに向かって歩んでいきたいと思います。