「『えり子とともに』が始まりますよ」
助産婦さんの声でラジオのスイッチが入れられました。明るく親孝行な娘「えり子」。このラジオドラマの放送時間に私は誕生したそうです。
丈夫な家を建て喜ばれていた父
主人公の名にちなんで「えり子」と名付けられました。小林家の三男二女の末っ子です。明治生まれの父43歳、母41歳。太平洋戦争に出征した父が無事帰還した後の、昭和26年3月28日のことでした。
父の職業は大工でした。丈夫で安全な家を建ててくれると、施主の方々にとても喜ばれていました。高等小学校時代には、高跳びの選手として活躍していたそうです。その健脚ぶりは、故郷の四尾連湖(しびれこ)までの往復30キロの道程を、夜中に歩いて家を出発し、現場に着くと、一日大工仕事をして、また歩いて戻ってくるという強行軍を何度となくやってのけていることでもわかります。
孫を満面の笑みで迎えてくれ
戦地では、好きな広沢虎造の浪曲を披露し、戦友に指導もしていたそうです。地元山梨特産のワインの一升瓶を傾けながら戦地体験を語る父の姿が、今でも目に浮かんできます。結婚した私が、子供を連れて実家を訪れると、「おおー、来たか」と満面の笑みで迎えてくれました。孫の来訪は何よりの楽しみだったようです。
洋裁もでき、手製の洋服を作ってくれた母
母は、父親を早く亡くしたため、上2人の姉が嫁いだ後は、家業の和菓子店を手伝いながら、女学校で和裁の技術を習得したそうです。
器用で努力家の母は、お客様のどんな難しい注文にも応じて、毎日夜遅くまで働いていました。母は洋裁もできましたので、戦後の物のない時代に、母のお手製のかわいい洋服を着ている私は、友達にうらやましがられたものです。
母は私の不注意を責めず
ある日、私の不注意から、母は包丁で指にけがをし、続いてポットの熱湯が足の甲に掛かり、やけどを負ってしまいました。和裁の仕事をしている母にとっては大きな傷手でした。当時20歳を過ぎたばかりの私は、どのように母に謝ったのかよく覚えていませんが、このとき、母は一言も私を責めることはありませんでした。
12歳年上の姉は、母に似て器用で、勤めをしながら和裁の仕事をよく手伝っていました。姉はまた、父親譲りで音感が良く、誰に教わった訳でもないのに、学芸会ではピアノを披露していました。
自分を変えたい夢が実現し
私はと言えば、不器用で、何をやっても自信がなく、いつも人の後を付いて歩いているひ弱な子供でした。小さいころから、こんな自分が嫌で、何とか変えたいといつも思い、いろいろなことをやってはみるのですが、長続きしませんでした。
でも、こんな私だから、大自然の法則と出会うことができて、人生仕上げに向かって一歩一歩前進させていただいているのだと、今では思えるようになりました。感謝できなかった私が、どんなささいなことにも素直に、「ありがとう」と言えるようになりました。これも、両親との出会いがあればこそなのです。
お父さん、お母さん、私を生んで育ててくれて、ありがとう。私の中に父も母もずっと生き続けています。