私は、昭和32年東京都に生まれました。父方の祖父は岡山県の地元で議員を務めるなど、信頼のあつい家系でした。祖父には、優しく静かに、納得がいったかどうかを確かめるような口調で語りかけてもらっていた思い出があります。村上家は、住所がはっきりしない「村上様宛」という郵便物は全て集まってしまって、子どもの自分にとっては面白く感じたものです。
信頼のあつい家系
長男だった父は、戦後、東京に出て縫製業を立ち上げ、実家に工場を持ち、東京は販売拠点として経営していました。実家にある工場は弟に任せていたのですが、弟が事故死したことで、事態が急変し、母と私と妹の3人が実家に戻り、母親が岡山の工場を切り盛りするという状況になってしまいました。父は単身で東京に残り、販売業務を継続。毎月一度岡山へ足を運ぶという生活を64歳超えるまで続けました。
そうした事情から、私は11歳のとき、東京の学校から岡山へ転校しました。都会っ子ということでいじめられましたが、それを親に告げたことは一度もありません。じっと我慢して小学校を卒業しました。中学校へ入ったときは、いじめはもうなくなっていました。あのときじっと耐えたことは間違いなかったと今だから言えますが、そのころから一人で何でもやるという性格が身に付いてしまったような気もします。
全てを背負い込む性格
ずっと父に言われ続けたのは、「お前は、親に一切相談しないで一人で全てを背負い込む悪い性格がある。――それを直せ」ということ。しかし、これはどうしても直りませんでした。今もそれは変わりません。
しかし、結局それが功を奏します。東京での就職時、海外へ仕事で初めて出て行くとき、お金に困ってにっちもさっちもいかなくなってしまったときの処理、会社で役員になるとき、自営業者として会社を立ち上げるとき等、それらを解決するときに必要なノウハウ、税務署や法務局への申請などを自分でやることでいろんな技術を身につけるという結果を生み、人の役に立つこともできるようになりました。
高卒後は、自分の意思で、大学ではなく専門学校に進学し、電子機械を専攻しました。仕事は、カメラマンか技術屋のいずれかだと思っていました。人に頭を下げるのが嫌いだったので選んだ選択なのですが、結果はメシが食える技術屋を選びました。
海外で死のふちをのぞく体験を何度も
大手企業のグループ会社に入社した当初は、海外各地へ仕事でエンジニアとして出張しました。大体10年間ですが、これで海外の生活に完全に慣れてしまって、「どこにいても構わない」というたちになりました。治安の良くない国での仕事もあり、死のふちをのぞくような体験を何度もしたものです。
これでいろいろと考えることになりました。このまま死ぬと一体俺はどうなるんだろうか、という誰もが持つ疑問ですが、私の場合は本当に死んでいてもおかしくない状況の中をくぐってきているので、一般の方とは少々精神構造が違うと自分では思っています。これも今思えば、大自然の法則と出会ったときに素直に歩むための必要な体験だったのだと思えます。
自然の法則に出会い
平成18年、それまで勤めていた会社を辞める一年前、自然の法則と出会うチャンスがやってきました。いろいろな出来事が集中して起こっていた時期であり、会社が傾きかけ、体調が最悪の状態になっていた時期でもありました。でも、趣味のブログは楽しみにしてくれている人がいるからなんとしても仕上げる、という姿勢で、私は会社を休みブログの完結に向けてラストスパートをかけていました。
そのとき、声を掛けられたことがきっかけで、103琵琶湖ありがとう運動10万人キャンペーンの一日三法行を、初めて法筆(ほうひつ)した――書きなぞったのです。
琵琶湖の話が出たので、そのころ聞いた外国人の言葉を思い出し、「琵琶湖の近くに宇宙の中心があるとも聞いていますし、いいですよ」と、気さくに応じました。別れ際には、法徳30日の三法行帳もいただき、超写経のすすめ教室に参加する流れになりました。
三法行を欠かさず繰り返し
2ヵ月後には正式に三法行を始めた私は、さらに1ヶ月後、体調不良の原因が胃ガンだと知らされたのです。かなりのショックを受けましたが、海外で死ぬ思いを何度もしてきてるので、あきらめの境地に入るが早かった。三法行をやっている仲間に助けられ、手術を受けたのですが、手術後の検査では、レベル4が3に下がっていました。
それから1年後、見落とされたもう一つのガンが見つかったのですが、奇跡的に助かってしまったわけですが、それ以来、三法行は毎日欠かさず繰り返しやっています。
頭を取って病気を問題としない自分に
病気を問題としない自分、自然の法則に沿った自分になるため、私はその後、頭を取りました。
頭を取ると、誰もが持っている「執着心とこだわり」がなくなります。まず目の前の人を笑顔で生きていけるようにしてあげたいと、素直にそういう状態になれます。そうなると自分にも笑顔がわいてきますので、結果として最高な状態なわけです。
私は、それまでも、人はみんな仲良く楽しくやっていくものとは思っていましたが、行動はあまり伴わなかったのが、積極的にさまざまな活動を楽しくやらせていただくようになりました。
それから私は、天声聖書の普及活動にも携わるようになっています。活動を通じて、自分自身が「なるほど」と思える天声に次々と出会わせていただいています。もともと、神様の教えとか仏の教えとかには早いうちから興味を持っていて、勉強していたこともあり、天声の波動が自分の内側にズーンと来る感覚が早い段階からありました。
以前、「軽い気持ちになれば、物事はうまくいく」という教えに触れていました。これが「よろこびあふれた観(おも)いいっぱい」でとは、そのころつかんだ感覚です。
家に流れるものを変えたいという観いは、そのころからありました。
先祖の後押しを感じるように
平成22年は、敬愛する母、そして父を相次いで亡くし、試練の1年間になりました。本当に大変な1年間でしたが、先祖の生きざまや死にざまから形成される家の流れを変えるために、自分なりにできることをやらせていただき、今では、そんな私を先祖が応援してくれているように感じています。
私は、両親の他界を機に東京を引き払い岡山に帰省し、デザイナーの仕事をするようになりました。近所の人たちとの交流も最近、にわかに活気づいてきました。「地域発展のために村上さん、こき使ってあげるわ」、と近所の方に言われる始末です(笑)
三法行をやればやるほど心が楽に
三法行に出会って頭を取っていなければ、今の私はいなかったでしょう。生きていなかったのではないかと思うのです。
ここで三法行と、「頭を取る」ことについて少し感じたままを書いてみます。
法唱・法筆・法座が三法行ですが、一般的に知られているものとは違います。
理屈抜きでプラスを心の奥底に刻んでしまうので、やればやるほどに、なんとはなしに重い自分の心が楽になっていきます。こういうのは理屈じゃなくて、感じるものなので、説明ではなくて、「楽になりました」「楽しく笑えるようになりました」といった感覚の問題になります。
写経というのがあります。筆を持って正座してかしこまった面持ちで取り組むというイメージが私にはあります。昨今は多少事情が違うようですが、それでもまだイメージが重いのは確かです。
それに対して「三法行」はかなり勝手が違います。ボールペンで楽しくスラスラっと書いていけるのが法筆です。
私は長生きしたくて三法行をしている訳ではありません。気持ちよくいつ死んでもいいという覚悟を持てる自分になりたかっただけです。
死にかけた、という経験を何度もしてしまうと、人間の生死に関しての感覚が少々変わってきます。
頭を取るとは、人間は生かされているという真実を知り、よろこびを共鳴し合う「よろこび共振体」になることです。
死ぬために生きている
三法行に出会って、頭を取って、死にかけた経験を実はまだ持っています。
しかし、またしても助かってしまったのですが、しかしそのときは簡単に覚悟ができてしまいました。できてしまいましたが、結果としてまたしても助かった。
呪文みたいなものをとなえた訳ではありません。
三法行に出会い、そして大自然の法則をつかさどる「天」に出会っていく訳ですが、この部分が普通では味わえない世界に突入していくのですね。
この「域」に入ると人生観が全く変わってしまいます。
人間、生きるために生きているのではなくて、死ぬために生きている。
織田信長ではありませんが、「人間五十年下天(化天)の内をくらぶれば夢幻のごとくなり一度生を得て滅せぬもののあるべきか」です。
どういう死に方をするのか。
苦しみながら一人寂しく死んでいくのか、それとも多くの人に手を握られ、「お疲れさまでした。ごゆっくりお休みください」と言って惜しまれながら死んでいくのか。
徳も器も空っぽの人と、徳と器が巨大な人では当然死に方は違います。
多くの人に囲まれないまでも、楽にそして笑顔で死んでいける自分でありたい。そしてそのための三法行だと私は思っています。
理屈抜きで心の奥底が明るく軽くなっていきます。
死んだあとのことまでは、今生きている私には分かりませんが、しかし不安は今はありません。いつ人生を終えることになっても大丈夫な自分になれています。
最後に、広島にはあさなる会館があり、気軽に超写経や三法行に触れていただけます。ぜひ、皆さんに広島あさなる会館にお越しいただきたいと思っています。