私は、沖縄本島の北西に位置する美しい島に、6人きょうだいの4番目に生まれました。当時、島では6人の子どもを育てるのは難しく、両親は、私が5歳のときに、沖縄本島への引っ越しを決意しました。大工をしていた父は、引っ越しした本島で、いつも5~6人の人工(にんく)さんを雇って仕事をするようになりました。父は一生懸命働いて、私が小学生のころは家に1人か2人の人工さんを居候させたりしていました。一日の仕事の終わりにはお酒を振る舞うのが日課で、母はその人工さんたちを家まで送るのが当たり前だったようです。
よろこびが少なかった子ども時代
母は、どうしても帰りが遅くなり、それから家事をしなくてはならないため、洗濯や掃除は子どもたちの仕事になります。母の事情は大きくなってから知ったのですが、当時は掃除や洗濯を済ませていないと叱られました。でも、きょうだいでくじ引きして掃除する場所を決めたりしていたのは、振り返ってみるといい思い出です。
たくさんのきょうだいに恵まれ、大家族がそろってきれいなビーチにドライブに出たりと、家族の団らんもありました。しかし、なぜか心底楽しかったという思い出があまりありませんでした。父はお酒を飲むと兄弟げんかをするなどのトラブルがあり、また、夫婦げんかもありました。両親は両親で一生懸命だったのかもしれませんが、子どもの私にとってはつらいものでした。よろこびが少ない子ども時代だったと思います。きょうだいの真ん中だったことから、両親、兄や姉のご機嫌を伺い、下のきょうだいにも気を遣っての毎日だった気がします。
同居の父方の祖母がとある宗教をやっていたことも、家庭不和の要因でした。悟りを開くことを目指すはずの宗教をしている祖母と、母は仲が悪く、母はよく「おばあにいじめられた」と私にこぼすので、私も祖母にはいい印象を持てませんでした。私は、子ども心に宗教に嫌悪感を持つようになり、宗教では人は救われないと思いました。
小学生時代は少しいじめられっ子だったりし、中学・高校時代は特別なこともなく、普通に真面目に通い、私は学校を卒業すると東京に就職し、信用組合に勤めました。職場時代は、先輩によく可愛がってもらいましたが、当時は人付き合いが苦手で、疎遠になってしまいました。
類の法則で結婚
5年ほどして、実家が不渡り手形に遭い、大変なことになっているということで帰ることになりました。仕事を探し電気工の事務を始めましたが、その会社も資金繰りは大変でした。私は手形など管理していたのですが、事務所の男の人が使い込みをしているのが後で分かり、余計に資金繰りは悪くなり倒産してしまったのです。本当に「類は友を呼ぶ」の法則通りだった、と思います。そんなとき出会ったのが、今の主人でした。主人の会社も一回倒産していて会社更正をしていたのです。後で分かりましたが、まさに類の法則による出会いでした。
子どものために教育ママに
私は、結婚して姓が変われば、違う人生が歩めるだろうと思っていました。すぐに子どもが生まれ、最初は幸せいっぱいでした。「子ども時代の自分のようなつらい思いをさせないように」という気持ちがあり、自然と子育てには力を入れるようになりました。私は、授かった3人の子どもたちにいい人生を歩んでもらいたいと思い、幼児から絵本の読み聞かせや、「右脳開発」のためと、学習塾に通ったりしました。
当時評判だった能力開発や精神世界に関わるベストセラーも熱心に読みました。子どもの健やかな成長を願い、子育てサークルにも所属しました。でも、そんなサークルでも、他の人の陰口がささやかれる場面に遭遇しては、心を痛めたものです。思い返せば、親の身勝手で子どもを振り回していたなと、とても恥ずかしくなります。夫婦の仲にも次第に見えない溝ができていき、私は真面目に働いてくる主人にもだんだんと感謝の気持ちが持てないようになっていました。
探しあぐねていた問題の解決策が
そんな平成8年のある日、私は子育てサークルで共に活動していたお母さんから1冊の本をいただいたことがきっかけで、大自然の法則に出会いました。私は、子育てのこと、主人との仲、自分の体調のことなどに悩んでいました。いろいろ本で解決策を探すのですが、最終的には、遺伝子の分野に行き着きもうお手上げだ、という時でした。最初はサークルの友人へのお付き合いから寝ころんで本を読み始めたのですが、読み進むうちに、その中に記された真理に息を飲み、起き直り、正座をしていました。
真理は、「頭がプラスだと無意識はマイナスで、その無意識の観(おも)いが現実を作っている」という凄く単純明快なものでした。探しあぐねていた問題の解決策が、その1冊の本の中にありました。すぐに本をくれた友人に電話をし、「頭を取るにはどこに行けばいいの?……」と問い、地域でお世話をしてくれている方から話を聞きました。
「3人の子どものため家族のため、とにかく自分が変わるしかない」と思った私は、すぐに頭を取りにいきました。何が何だか分からないままやらせていただきましたが、最終的には最高の自分がそこにいて、苦を苦としない本来の人間として生まれていました。子どもたちと主人も私に続きました。
欠かさず三法行を繰り返し
私はその後、どんなときでも、ただただ三法行(さんぽうぎょう)を欠かさず繰り返してきました。
また、子どものため、家族のために、大自然の法則に沿い、家に流れているものを変えるための実践を繰り返ししていると、家の中の空気も穏やかになり、心配だった子どもも、自立して、私は何の不安もなく、安心して外で働けるようになりました。
さまざまな場面で目に見えないものに苦しんでいた、同居の義母にも、明るい毎日を過ごしてもらいたいと思い、三法行のすばらしさを伝えると、義母は法徳30日の三法行帳の法筆から始めて、天行力(てんぎょうりき)を感じ、三法行なしでは一日が終わらないほどになりました。今では一緒に三法行を楽しく実践するようになっています。
三法行で義母も元気に
義母は心配性で、何でもかんでもよく心配していました。体も強くなく、何かひとつのことをやるにしてもひとまず体を休めないと次の行動ができませんでした。でも、三法行を始めてからは、心配することもなくなり、体も元気になっています。自宅で義父の介護をし、義父の食事の世話や下の世話など、義父が喜んでくれることを考えながらやっているのです。
夫とは以前はよくけんかをしたのですが、今はまったくなくなりました。義父もとてもいい顔をしています。七観行の二番目、「家族全員がゆたかで明るい毎日です」そのままの家族になりました。
沖縄には平成23年にあさなる会館ができ、三法行に触れてみたい方をお迎えしたり、木村代表の講演会が行われたり、三法行をやっている人たちが集まったりして、皆で楽しく活動をしています。
大自然の法則に沿って、本来の人間として喜んだ毎日を送れるように、三法行に触れてみていただけたらと思っています。そこにいるだけで温かく、ありがたい空気に癒やされる各地のあさなる会館に、ぜひお立ち寄りいただけたらと思います。