私たち人間は、他の万物となんら変わることなく、すべての根本である「天」(大自然そのもの)の意志の、ひとつの表現体と言えます。
天とは「生気」であるという言い方も間違いであるとは言い切れないでしょう。生気が形をまとい、万物となります。つまり天は、天の本質である「生気」を、万物という物質次元で表現しようと意図したと考えることもできるでしょう。
この地上のどの存在も、地球に必要なものとして存在していると言われていますが、個々の存在がそれぞれのエネルギー(あるいは固有の波動)をもって、この自然界を支えています。
つまり万物は、天の意志にしたがって、世界を現象化させるためのエネルギーを産出しているのです。天は万物に生気を与えましたが、その万物はエネルギーを産出して、今度は天の生気を増強させているのです。
太古の昔、大自然と一体化した生活をしていた時代には、人は天行力を体いっぱいに浴び、喜びに満ちあふれていたはずです。それなのに、しだいに人間は便利さを求めて文明を発達させ、我欲を優先させる行動をとってきました。
それに比例するかのように、心身には「苦」という障害物が付着し、それが堆積して、天行力がしだいに流れにくくなってしまったのです。
いま、喜びがわかないという生活をしている人ほど、集中的に天行力を受ける必要があります。喜びがわかないという状態は、不自然です。
大自然には美しく流れる調和があり、喜びの姿があります。大自然の姿は、すべて、そのままで満足している姿です。完成しているのです。決して人間のように、こうなりたいとか、変わりたいとか、願い求めてはいません。だから、喜べて、満足しているというのが自然な状態なのです。
反対に、喜びがない、満たされない、不安である、自信がないというのは不自然な状態であり、それは本来あるべきものを受け取れていない状態と言えます。不自然な度合いが強いほど、エネルギーを通さない、絶縁体になってしまうからです。皮肉にも、そうとは知らずに自分でエネルギーを拒否しているのが、現実の姿なのです。
変わりたい、この問題をなくしたいという願いが強い人ほど、いま問題のある人であり、天行力を受け取れていないことの裏返しとなります。
だからこそ、問題があればあるほど、大自然の生命活性エネルギーにふれる必要があるのです。
天行力が体内をくまなく流れることによって、私たちはつねに、本来もっている喜びを実感し、喜びに包まれることになります。そうであれば、私たちが生きる上でのすべての物事が、同時に改善されることもまた当然のことなのです。
それがもともとの、本来の姿だったからです。
そうして、自分にも、生活にも、喜びの現象が出るようになるのです。
大宇宙は、人間がなにひとつ不自由なく暮らせるように、すべての人間が幸せな生涯を送れるようにと、天行力という慈愛のエネルギーを、私たちに降り注いでくれていたのです。