「それは非常識だよ」
「常識ってものを知らないのか!」
こんな言葉もよく耳にします。もしかするとあなたも、しばしば使っている言葉かもしれません。
「常識」とは、私たちが生きていく上での、ひとつの「基準」です。
この常識に反しているものに対しては、ついついこんな拒否感を抱き、自分が常識に反していると思う場合には、まわりの人に対して引け目を感じたり、自らを恥じたりする心理が働きます。
このように多くの人は、「常識」を無条件に信じて、それを基準に物事を判断しようとします。これもまた、常識は正しいという「思い込み」があるからです。
しかし、常識は必ずしも良識ではありません。ましてや真理でもありません。しかも、常識は、時と場合によって変わっていくものです。私たちが生きていく上での判断基準には、決してなり得ないものなのです。
もちろん、常識にはいくつかのメリットもあります。
それは、常識的であれば、社会の中で摩擦を起こさずに生きていくことができる、楽に生きることができるということです。
楽に生きていこうと思えば、常識は大いに役立つはずです。何ごとも常識的に判断し、常識的に行動すればいいのですから。
ですが、そんな生き方が、本当に楽しく充実した生き方でしょうか。常識に頼る生き方をしている人には、そんな自分の味気ない人生に気づいたときに、大きな苦労や悩みを背負い込まなければならないという代償が求められます。
ついこの間まで、女性の結婚適齢期は27歳だという常識がありました。その常識のおかげで、多くの女性が苦労し、悩んだのです。
ところが現在はどうでしょうか。その常識は完全に崩れています。ちなみに昭和初期までは、童謡の赤とんぼの歌詞にあるように、「一五で姉やは嫁に行き……」が常識の範囲だったのです。
このように常識は、その時々の社会情勢によって揺れ動くものです。
しかも世間の常識には、いい加減と言えるものもたくさんあります。そんな常識を正しいと思い込むのはおかしいのですが、それをおかしいと思わないところが「思い込み」なのです。
常識にとらわれた生き方が、幸福をもたらすとは決して言えません。私たちが生きる指針となるのは、ただ一つ決して揺らぐことのない〝真理〟なのです。真理に従うことでしか、自分自身にとっての幸福は生活に表れてこないのです。
現実社会に合わせようとして常識を守りながら、一方で幸福を求めるのは、実は二兎を追っているようなものなのです。
さて、あなたは世間の常識とどのように付き合っているでしょうか。決して常識を破ろうと提唱しているわけではありません。ただ、「常識こそ正しい」という思い込みがあったとしたら、それで良いのかどうか、ここで少しあなた自身に問いかけてみてほしいのです。
見えないものは信じない
「なんとなく気が進まない」。そう思いながらも出かけて事故に出遭ったり、財布を落としたりという経験を持つ人もいるでしょう。ひと昔前までは、私たち人間はこうした予感や第六感というものを大切にして生きてきました。
ですが、科学万能の時代になるにつれ、多くの人は、目に見えないもの、形のないものに関しては否定的な受け止め方をする傾向が強くなってきました。論理的な証明や科学的な証拠がないかぎり、認めようとしません。ここにも大きな「思い込み」が存在します。
「地球は回っている」。この言葉を、あなたは信じるでしょうか。きっと信じるでしょうし、真実だと思っているはずです。ですが、中世の人々の間では、そんなことを信じるのは非常識でした。なぜなら、納得できる証明がないからです。
その意味では、私たち現代人も中世の人たちに負けてはいないかもしれません。
その証拠に、ひとつ質問をしてみます。
「あなたは、なぜ地球が回っていると信じているのでしょうか。説明してください」
いきなりこう聞かれても、説明に苦しむのではないでしょうか。ましてやあなたは、地球が回っていることを、自分の目や足で確かめたこともないはずです。
このように、ほとんどの人は理由も説明できずに、それが真実であると信じているのです。これは、科学的な考え方に反しているわけですし、よく考えてみると何かおかしいと思いませんか。
私たちが、地球が回っていると信じているのは、偉い科学者たちがそう言っているからです。そして、学校の教科書で「回っているぞ」と学んだからです。だから、間違いない真実だと、何の疑問も持たずに思い込んでいるのが事実でしょう。
この思い込みは結果として正しいのですが、なぜこんな話題を持ち出したかといえば、私たちには、自分で見たものしか信じないという要素と、正しいと教えられたことは素直に信じてしまうという矛盾した要素を合わせ持っていることを知っていただきたいからです。
実は、地球が回っていることを本当に確認できたのは、宇宙に人間が飛び出したときなのです。それまでの何百年もの間の証明は、理論や観察上の推測にしか過ぎませんでした。科学的にも感覚的にも、真実を真実と認めることができたのは、つい最近のことだったのです。
このように、私たちが、見えないものに対して信じる、信じないという判断を下すのは、本当にあいまいな「思い込み」を根拠にしているのです。
ただ、私たちがどのように思おうと、地球は確実に回っています。いまこの瞬間も、科学的な発想でも、感覚的な発想でもとらえられない真実が、24時間周期で確かに回っているのです。
ちなみに、そのスピードは赤道で時速1620キロ。秒速で450メートルです。もしあなたが、いま赤道直下にいたとしたら、いまこの瞬間の1秒に、あなたは西に450メートルも移動しているのです。そして、1時間後には1620キロもの彼方まで、ジェット機の倍近いスピードで移動しているのです。
あなたが科学発想派であっても感覚発想派であっても、信じられないことでしょうが、真実はそうなのです。
見える世界も、見えない世界も、たった一つの真実が確実に存在しています。それは、証明できなくても永遠に存在しているのです。
もともと科学というのは、その真実を確認することが目的であり、証明は「真実があることを多くの人が理解する」ために作られるものなのです。証明があるから真実があるのではありません。
この当然のことを忘れて、「証明できないし、根拠がないから、それは違う」という考え方を正しいと思い込んでしまうのです。
このように、私たちはいろんな「思い込み」によって、自分の目を曇らせています。そして、先に述べたように、見えているものさえ見えなくしてしまうのです。また、見えても、それを認めたくない場合は、わざと歪めて見ようとするのです。
すべて、「間違った思い込み」のなせる技なのです。
思い込みがいかに人間の目を曇らせるか。それを感覚的に感じていただくために、もう一つ、もしかすると子どもの頃にやったことのある実験をしてみましょう。
次の図の「自分」の文字を、「右目を閉じて」じっと見つめながら、少しずつ目を近づけてみてください。すると、あるところで「真実」という文字がパッと消えてしまいます。
これは、目の〝盲点〟の位置を確認するために作られた図です。盲点とは視神経が束になっている箇所で、ここだけは視覚がありません。
では、どうして普通に見るときには見えるのかというと、見えない盲点の箇所を、目から送られてきた情報を元に脳が〝推測〟して補完しているからなのです。だから気づかないのです。
実は、これと似たようなことを、私たちも無意識のうちに行っています。思い込みを〝推測の基準〟にして、目に映るものを見ているのです。その頭の中の思い込みが間違っていたら、当然、見えるものも見えなくなったり、見えても間違った解釈をするようになります。
この図の文字を、なぜわざと「自分」と「真実」にしたかといえば、「自分」にこだわって自分を見つめると、「真実」が見えなくなるということを、遊び感覚でも分かっていただきたかったからです。