習慣には、意識した経験で作られたものと、無意識の経験によって作られたものがあります。いずれも同じ行為を繰り返しているうちに、それが身体に染みついたものとなり、自分の意志を離れて、勝手に動き始める「習慣」となったのです。
そしてその習慣は、人間が持つ不思議な智恵のひとつでもあります。習慣化するという不思議な力がないと、どうなるか。車の例で説明してみましょう。
車の免許を取って、初めて運転したときから何年も経つのに、左に曲がるには……、信号表示の意味は……、などといちいち考えて、そのつど判断しないと運転できないのでは、怖くて道路を走れません。何度も繰り返して経験するうちに、それが習慣化され、考えなくても頭が無意識に判断して、身体が勝手に動くようになるから、誰もが安心して運転ができます。
同じ事を何度も行うのに、そのつど最初から考え直し、方法を思い出してから決断するという作業をしないと行動できないというのでは、時間的にもエネルギー的にも、人間は大変な苦労をすることになります。生活のあらゆる場面でこのような事が起きると、私たち人間は暮らしていくことさえ困難となることでしょう。「習慣」という智恵が備わっていなかったら、もしかすると人類の進化もなかったかもしれません。
習慣には、同じことを繰り返していくと、最初に要した努力よりも少ない努力で、さらに進歩したことができるようになるという力があります。この力が備わっているからこそ、私たち人間は、これまで進化し続けることができたのです。
ところが、現実には、自分にマイナスの影響を与える習慣も身に付いてしまいます。それは、気づかずに習慣になったもの、あるいは意識して習慣にしたものも含めて、これまでの生き方の何かがそうさせたと言えます。せっかく授かった智恵の活かし方を知らないために、誤った習慣を育ててしまった、というほうが分かりやすいかもしれません。
習慣というものが、どれだけ自分に影響を与えてきたかということは、子どもの頃、あるいは学生の頃と、いまの自分とを比較してみるとよく分かるかもしれません。その当時の自分の性格、考え方や感じ方、行動の仕方などを思い出してみてください。いまの私たちよりも、はるかに自分に対して正直で、ストレートに自分を表していたのではないでしょうか。
それが、大人になる過程で、いろいろな経験を重ね、いろいろな習慣を身につけていくうちに、気持ちも考え方もだんだん複雑になり、良くも悪くも、いまの私たちの〝個性〟が作られてきたのです。
振り返ってみてください。きっと思い当たる節があるはずです。
子供の頃の自分はどうだった
この地球上のすべての生命体の中で、成長するにしたがってマイナスの習慣を抱え、それによっておかしな方向に変わっていくのは、いくら探してみたところで、おそらくは人間だけだと言えないでしょうか。
植物を例にとってみましょう。
たとえば、花の生命は、地中に埋もれている種子のときから、まっすぐ天を目指して育っていきます。地表を破って現れた若芽は、風が吹けばそよぎ、雨が降ればしおれながらも、そうすることが当然のように、ただひたすら天に向かって伸びようとします。何らかの障害物があれば、逆らうことなくごく自然に曲がりながらも、なおも天をめざし、そして次の生命を誕生させるために可憐な花を咲かせます。それが花の生命に与えられた役割であるからです。
では、人間の生命はどうでしょうか。やはり同じで、母親の胎内にいるときから、育とう、伸びようとしています。赤ちゃんを抱いて、そのつぶらな瞳をじっと見ていると、「よい子に育つんだよ」「立派な大人になろうね」と思わずささやきたくなります。それは、これから〝人間を始めよう〟としている新しい生命が持つ、純粋な使命のようなものを感じるからではないでしょうか。
人は誰でも、かつて自分が赤ちゃんだった頃、周りの大人から、同じような言葉をささやきかけられていたのです。その赤ちゃんが大人になったいま、つまり、いまの私たちは、花の生命のように、自然のままに、当然のごとく、まっすぐに天を向いているでしょうか。
この地球上のすべての生命の中で、最も進化した生命体であり、唯一、知性を授けられた人間だけが、ときとして自分をゆがめながら育っていくことになります。そして生き方に悩み、迷っているのです。これは不自然なことです。
そして実は、そうなる要因の一つが、自らの持つ「習慣」にあるのです。