三法行を、これから始める人や始めたばかりの人から、よく質問を受けることがあります。
そのひとつに、「どうすれば三法行を習得することができるのですか?」という質問があります。ここまでお読みになった方も、おそらくそんな疑問を抱くかもしれません。
誤解のないように述べておきますが、三法行は、学ぶものでも習得するものでもありません。これまでにも述べているように、三法行は、これらのものとはまったく次元が違い、歪んだ状態を根底から変えて、自然の法則に沿った本来の自分に成る「行」ですから、簡単な動作にさえ沿って、ただ自然体で行えばよいのです。形式を重んじる要素はどこにもありません。
また、「続くかどうか心配です」とか、「病気を治すためにやってみたいのですが」といった質問もよく寄せられます。
続くかどうかということについては、最初は雑念がわくため、これでいいのだろうかと不安になって意欲が低下してしまうケースもありますが、雑念がわいても、まわりの音に邪魔されて集中できなくても、いっこうに構わないのです。それを押さえることなく、いまあるがままの気分で行えばよいのです。
そんな日々を何回か繰り返しているうちに、人によっても違いますが、そのうち、いつもの自分とは違う何かが自分に起きていることに気づくはずです。そうなれば、三法行を行うことが楽しくて仕方がなくなります。
そして、続くかどうかということよりも、やらずにはいられない自分に変わっていることに驚くはずです。
花の種を鉢で育てるときのことを思い出してみてください。最初は何も見えないので、本当に育っているのかどうか分かりませんが、しばらくすると芽が出てきます。そうなると、楽しみになって世話をせずにはいられなくなります。すると、すくすくと育っていくので、花が咲くのがますます楽しみになってくるでしょう。
それでも、三日坊主になりそうだとか、1人だとどうも励みになるものがないという人は、何人かのグループで実践する手もあります。仲間がいないときには、先に述べた「あさなる会」に参加することもできます。
次に「病気を治したい」とか、「悩みを解消したい」といった特定の目的がある場合ですが、本来、三法行は、願ったり、頼ったり、求めたりするものではありません。
これまでにも、三法行を行うとどうなるのかについて述べましたが、それは、あくまで結果として生活に実証が表れることを、分かりやすく説明しただけのものです。
ただ、最初の動機はどのようなものであってもよいでしょう。人によっては具体的な目標があったほうが始めやすいかもしれません。最初は目的にこだわっていても、実践しているうちに、そんなことはすっかり忘れて、何も考えずに、ただ三法行を行っている自分に自然になってくるはずです。
そして、その繰り返しをただ行っているうちに、気がついたら目的が達成されていた、あるいは目的そのものが必要でない自分になっていたという結果が出てくることでしょう。
三法行は、他に例を見ないものだけに、具体的なイメージがわかないかもしれません。ただ、大自然の智恵の結晶を実践する「行」であり、喜びがわく「行」であることだけは確かに憶えておくべきです。
人間は、自分で自分を変えようと思っても、なかなか変われるものではありません。だから、天が力を差し伸べてくれているのです。
悩みも苦痛も必要としない自分、何のこだわりもなく自由自在に生きる人生、たった一度の人生を「観うがままに生き」「与えられた生命を最高に輝かせる」ことができたら、これは最高に価値のある人生です。
そのような人生を、あなたが実現できれば、これ以上に素晴らしいことはありません。