前項で述べたとおり、不自然さに慣れて現代に暮らしていると言える私たちですが、それがあたりまえという感覚になっているのではないでしょうか。
私たちの人生に、一番大きな影響を与えているものに〝お金〟があります。
貨幣社会において生活をしていく上で、なんと言ってもお金は必要なものです。私たちが人生を生きるための努力と時間の大半は、このお金を稼ぐために費やされていると言っても過言ではないでしょう。
ところが、そのお金が、人生の大半の悩みや不安を生み出し、労せずしてお金が手に入れば怠惰な心を生み出し、ときとして人の人生さえも狂わせてしまいます。
なぜ、このようなことになるのでしょうか。
その原因は〝お金〟にあるのではありません。お金に対する間違った考え方が、お金を通じて悩みや不安をつくり出しているのです。
たとえば、少しでも安定してお金を得たいがために一流会社に就職します。そして仕事を頑張って出世しようとします。その結果、重役になれ、世間もうらやむような生活ができるようになります。出世するということは、人並み以上に努力をするということです。その努力が、もし〝お金〟に集中していたとすれば、その人は相当に無理をしているはずです。その無理から、心の安定や幸福が生まれることは想定しづらいことでしょう。
このように言うと、「お金のために働いているのではない」と言う人もいます。
では、もし自らが勤める会社が倒産したり、リストラされて会社を放り出されたとしたらどうでしょう。そのとき、「私はあの会社で何十年も働いて幸せだった」と言える人がはたして何人いるでしょうか。また、たとえ本当に働きがいを得ていたとしても、待遇に対して文句を言うことはなかったでしょうか。
人は何か不自然な自分を感じたとき、自分で自分をだまそうとします。自分の行為を正当化しようとする意識が働くのです。
お金がからむと特にその傾向が強くなります。しかし、どんなに自分をだましても本当に自分を納得させることはできません。そのことは誰もが一番よく分かっているはずなのに、それを認めたくないもう1人の自分がいるために、自分で自分をごまかしてしまうのです。
先にも述べたように、お金は必要なものです。そしてお金を稼ぐことも、決して悪いことではなく、稼げる人はどんどん稼げばよいのです。
問題はそうではなく、そのお金に執着してしまう自分にあるのです。
お金はある意味で人生を楽しくしてくれる効果があります。しかし、あくまでも手段であり道具であって、お金そのものが幸福をもたらすことはあり得ないのです。
よくある話ですが、「将来が不安だから、もっと頑張って貯金をしなくては」「老後に備えて5千万円を貯金したから、私の老後は安心だ」と言う人がいます。そして、そんな人を見て、あの人は堅実だとか、見習わなくてはと思ったりする人もいます。確かに貯金が増えれば、それだけ安心感も増えます。生きることに自信もついてきます。
しかし、ここで気づかなければならないことは、なんだかんだと言いながら〝人生をお金に託している自分〟が、そこにいるということです。そう思って貯金している意識はなくても、「お金は手段であって目的ではない」と分かっていても、いつの間にかそうなっている自分に気づかず、生きるための努力が、お金を稼ぐ〝苦の努力〟にすり変わってしまう人は、決して少なくないでしょう。
この目的と手段の逆転が極端になると、人は犯罪さえ犯すようになります。
周知のとおり、ますます犯罪が激化する物騒な世の中になっていますが、その犯罪の大半がお金がらみでしょう。お金に執着した結果、お金を得るためには人の道を外しても構わないという気持ちになり、人の命さえ奪ってしまいます。人生という目的とお金という手段が逆転してしまうと、人はここまで変わることができるのです。
これがお金に執着する怖さなのです。
社会的に高い地位にある立派な人たちが、贈収賄や横領などの犯罪を犯すのも、知らず知らずのうちに、人生の目的が〝お金〟にすり変わって、お金に執着し、お金を握りしめようとした結果にほかなりません。その人たちも、生まれたときには、そんな人ではなかったはずです。どこかで自分を見失い、それに気づくことなく間違った人生を突っ走っていたのです。
極端な例を挙げましたが、いずれにしても、お金に執着する、お金を握りしめるようになると、人はそのために無理をしようとします。そして不自然な気持ちを抱き、不自然な行為をしようとします。そこから得られるものは、目先の快楽、目先の欲求を満たす満足感であり、それ以上のものは決して得られないでしょう。
同じことを繰り返しますが、お金という道具を稼ぐことは悪いことではありません。むしろ稼げるならばどんどん稼げばよいでしょう。お金には何の罪もありません。お金に執着する、お金を握りしめる、そしてお金に自分の人生を託してしまうということに問題があったのです。
〝お金に使われる人生〟ほどつまらないものはありません。お金を求めるという気持ちは、いろいろに形を変えて私たちの目の前に表れてきます。だから、なかなか気づくことができないのです。
これまで私たち人間は、幸福を物に求め、便利さに求めてきました。さらに付け加えるならば、社会的な地位に求め、見栄に求め、生活スタイルに求めてきました。これらのすべてに、だからお金が必要だという意識が隠されているのです。それらはすべて幸福への道ではなく、物質的な生活を豊かにする道であり、同時に、私たちを真の幸福から遠ざける道でもあったのではないでしょうか。
自然な自分が一番素晴らしい
ここまで、人間は本来「自然の法則」にしたがい、自分の内にあるリズムと、宇宙のリズムとが調和しているときに、自分の生命を最高に輝かせることができるという説明をしました。そして、現実の生活の中には、不自然なものも多くあり、その中で自分自身もまた不自然になっているということを、少ない例を挙げながら述べてきました。
このように見ていくと、まるで人間らしさが失われていく社会の中で、私たちはこれまでのような生き方をしていては、人生そのものを見失ってしまうかのようですが、このような時代だからこそ、私たちは人間らしく〝本来の自分〟を取り戻して生きていかなければなりません。
あなたの内に目を向け、あなたの生命が奏でるリズムに気づき、そのリズムを自分らしく発揮させて、「自然の法則」が奏でるリズムに共鳴していくこと。つまり、「観い」を源かせ、その、「観い」を正しく使って、あなたのまわりとの調和、そして大宇宙との調和をとることができれば、あなたは、どのような状況におかれていても幸福になることができるのです。
そして、人生を観うがままに楽しむことができるのです。
今の世の中を批判する、自分の境遇を嘆く、仕方がないと努力をあきらめる。このような気持ちを持つことほど、バカバカしいことはありません。あなたは、自分を生きる権利があるのです。喜びに満ちた人生を生きるという使命があるのです。そして、すでに述べたように、その力のすべてを、あなたはすでに持っているのです。
自分らしく、そして人間らしく生きるということは、その持っている力を、ただ繰り返しあなたの表面に表わすことだけです。そうすれば、世の中がどうであれ、人間らしい自分を生きることができるはずです。
そうなれば、あなたの生活にリズムが生まれてきます。「自然」のリズムが、あなたのいまの生活リズムを変えて、新しいリズムを生んでくれるのです。
生活を変える、生活を改めるというのは、そのような生活を生み出している本質を変えなければ、どんなに努力しても変わるものではありません。目先を追い、目先の変化を求めるのではなく、目には見えない不自然さに気づき、自分を本当の自然体に戻すことに目を向けるべきです。
自然体の自分というのは、無理をしない自分、素直な自分、積極的で明るい自分のことです。そのような自分になることができれば、無理のない生活、素直な生活、積極的で明るい生活は、それこそ自然に実現できるのです。
時代の変化に流される自分ではなく、また、まわりの環境に影響される自分ではなく、生かされている人生を〝自然体の自分〟で生きる。そのことの大切さを、もう十分に理解できたことでしょう。
そして、三法行が、そのような〝自然体の自分〟を引き出してくれる「道具」であることも。