私たち人間は、あたりまえのことですが、〝人間〟として生まれてきました。しかし、文明が進み、科学が発達し、経済が豊かになるとともに社会構造は複雑になり、人間が人間として生かされている「自然の法則」というものを少なからず忘れて、軽視してきました。
そしていま、私たち人間は、人間として生まれながら、人間として生きることがとても難しい環境の中で生きています。本来持っているリズムが乱れ、人間を生かす他のすべてのリズムと調和しなくなり、あたりまえのことが、あたりまえにできなくなってきたのです。
このように言うと他人事のように思われるかもしれませんが、ちょっと気をつけてみると、ふだんの生活の中にも、不自然なことがたくさん発見できるのです。
身近な例を挙げてみましょう。たとえば、毎日、家族そろって夕食の卓を囲むことができる家庭がいったいどれだけあるでしょうか。「せいぜい日曜日だけ」という家庭がかなり多いことに驚かされます。父親は仕事で夕食の時間には帰れない。下の子は塾に行くために1人で早めにすませる。上の子は友達と遊びに行っているといったように、家族バラバラの夕食をする家庭が増えていると聞きます。
昔は、貧しいながらも、よほどの事情がないかぎり家族で食事をすることはごく自然なことでした。そうしないほうがむしろおかしかったのです。そして、夕食こそが一家団らんの場であったのです。ところが、現在の不況こそあれ、昔に比べれば経済的に豊かになって、食卓はぜいたくになったのに、肝心の家族がそろわないのです。
もちろん、家族の団らんがないと家族の条件を満たさないということでは決してなく、家庭によって親子の交流の形はさまざまですが、やはりどこか不自然さを感じている人も少なくないでしょう。
日本は、世界的にみても有数の先進国です。それだけみんな頑張って働き、子どもの頃とは比べ物にならないほどの生活を築いてきました。
その努力の目的は、家族の幸福ではなかったのでしょうか。
しかも、家族で海外旅行といったレジャーよりも、一家団らんの夕食を楽しむ幸せを願って、頑張ってきたのではないでしょうか。お金持ちになった人でも、豪邸を建てるときには、この部屋で家族そろって夕食をと夢を描きながら新築したのではないでしょうか。
どんなに時代が変わっても、夕食の時間になると家族が全員そろい、食卓を囲んでなにげない雑談の一時を過ごすというのが、家族の幸福のひとつの形であるはずです。かつてはそれができていたのに、頑張った結果、ぜいたくはできるようになったけれど家族が夕食にそろわなくなったというのは、おかしなことです。
「そうできればうれしいけれど、みんな忙しいから仕方がないよ」。誰もがそう思い、それがあたりまえのこととして受け止められているのです。現実問題として、今の社会環境では、家族そろって夕食をとるということは大変難しいことです。しかし、日常生活でごく当然のことさえ困難にする現代社会、そして、それを不自然と思わなくなった人々の感覚は、何かが少しずつずれてきているのではないでしょうか。
夕食に関連して、食品に目を移してみても、不自然なことはたくさんあります。
食卓に上がる野菜もそうです。健康に気をつける人が増えて、最近、有機栽培野菜が人気になっていますが、野菜は、もともと有機栽培だったのです。それが生産効率を上げるために科学肥料を使うようになり、私たちの健康を少なからず脅かすことになってしまいました。「健康にいいから野菜を食べなさい」という母親が、その野菜を買うのに健康の害を心配しなければならなくなったのです。
野菜だけではありません。果物や魚は、新鮮さを見せかけるために科学薬品でツヤを出す。自然の色では見かけが悪いために着色料を使う。長持ちするように保存料を使う。量を増やすために増量剤を使う。このように自然の恵みを、不自然に加工して、自然に見せかけるということを繰り返しながらやってきたのです。
きれいごとなんて言っていられず、利益を計上していくためにはやむをえない策なのでしょうが、それが、今日までの経済発展であり、食文化の進歩だったのです。
そして、使い捨て文化の発達で、ペットボトルや発砲スチロール容器など科学製品の廃棄物が大量に増え、その廃棄物が公害となり、人間の生命を脅かす事態までも引き起こしてきたのです。
一番身近な夕食の例をひとつとってみても、こんなにも不自然な問題があります。
このように、あたりまえのことが、あたりまえでなくなっているケース、不自然さが当然になっているケースは、少し気をつけて見ただけでも、あなたの身のまわりから山ほど発見することができるはずです。
科学技術が発達し、経済が豊かになるにつれて、本来自然であるべきことが、不自然に変わっていき、まるで私たち人間を幸福から遠ざけているかのようです。
私たち人間は、おそらくこのような世の中を願って頑張ってきたのではないかもしれません。悩みや不安をなくし、安心して暮らせるあたりまえの幸福を願って頑張ってきたはずです。しかし、結果はまるで逆、かえって悩みをつくり不安を増す方向に世の中は動いているかのようです。
これはひとえに、努力の方向が自然にかなったものであったか、否かです。不自然な努力からは不自然な結果しか生まれてきません。
そして、不自然な社会からは、決して真の幸福が生まれてくるわけはないのです。