【質問】
三法行の法筆帳と、一般に売られている写経用紙との違いは何でしょうか?
【ご法話】
ここは写経と言いません。
写経というのは〝お経〟を写すんです。
確かに、お経を写す姿勢というのは、
非常によろしい雰囲気に見えます。
背筋伸びて、墨のすり方から、
筆のもっていき方から、
そして、心のあり方から、
写経する、そのものから、
何も悪くないと思うんですが、
天声
「写経は全て、首から上の世界。
必ず、願い・求め・頼る、
そのやり取りの中にある世界。
だから写経は自分を出すためにやる。
これは意味をなさない」
でも、中にはよろこびを
(ここでいう)法筆される方もいらっしゃると思います。
それだったら、本当の「三法行」なんです。
本当の三法行はそこにある。
何かというと、お経を写すのではないのです。
首から下はよろこびの塊。
人間はよろこびの表現体。
よろこびなんです。
「よろこび」をペンを通じて、筆を通して、書き写す。
確かに、般若天行ですけれども、
お経の場合は般若心経ですけれども、
あの般若心経の中には力が無いんです。
釈迦は、なにも般若心経を作ったのではないんです。
後の方々が形のために作ったものです。
なるほど、よくできているんです。
ところが、あれをお経にした場合は「首から上」の世界。
あれを「首から下」で扱った場合は
釈迦の言いたかった一番の基本が中にある。
だから、よろこびを書き写す。
ここでいう、「最高」を書き写す。
その一枚。
一巻終わったものは必ず細胞に浸透する。
生きざま切開の場合には薄皮が1枚剥がれる。
誰が行るかって言ったら、
法則がある以上は必ず剥がれるんです。
ところが、頭でやる場合は、
念じてやる場合は、
物交換でやる場合は、
幸せになるためにやる場合は、
心の安住を求めてやる場合は、
必ず、また薄皮の汚れが1枚ついてしまうんです。
既存の宗教は全部歴史を通じて、
頭で作りあげられたもの。
その時代に一番必要とされた、
その一つの道徳であり、哲学、手法なんです。
でも、それだけでは何も人類は片づいてない。
人類救済はできてないんです。
やはり、最後のたどりつく所は、
我々一人ひとりが、
首から下を正しく書き写す。
これが法筆。
その法筆の中には「願い・求め」はない。
よろこびしかない。
だからよろこぶ生活がやって来る。
観いが先。
生活が後。
こうなるんです。
(完)