【質問】
頭を取ったら、必ず天職は見つかりますか。
【ご法話】
天職を歩める、大きな第一歩につながります。
なぜか。
天職の条件は3つのパックで構成されています。
1番、2番、3番とこれ絶対に順番を変えてはいけない。
だからよく天職といったら
適材に出会った人は「天職」とよく錯覚をするんです。
自分の好みのお仕事、やりがいのあるお仕事、誇りとするお仕事。
それはすばらしいと思うんですが、
それは適材であって、
天職という結論にはつながらない。
だから、1番、2番、3番パックになっています。
もちろん、法則です。
1番が、今日最初から示されている「観い」です。
プラスです。
観いには必ず「プラス」と「マイナス」があります。
プラスはよろこびが源いている時がプラス。
マイナスはよろこべていない時、不安、こだわり、イライラ、葛藤、嫉妬。
要するに、おもってはいけないけれども、
自分を振り回してしまう、
その原因たるもの。
これがある人はマイナスなんです。
もう1つ。
本を読んで「プラスを刻まなくてはいけないな」と思った方はどうかといったら、
これもマイナス。
なぜか。
「プラスを刻まなくてはいけないな」というのは
すばらしい考え方ですけれど、
これまた自分をとらえているからマイナスなんです。
これが心臓1回動く度に1つチェックされている。
今、またチェックされた。
今、またチェックされた。
その時にプラスか、もしくはマイナスに分かれて刻まれてゆく。
その中で天職のまず1番目の条件は、
プラスを刻めていることが条件。
間違ってはいけない。
2つ目は、プラスというのはエネルギーですから、
マイナスもエネルギーなんです。
このプラスエネルギーは、
例えばこの水に例えましょうか。
水というのは清いですから
喉が乾いた時には飲むとそれは満足します。
ところが、その水というプラス。
それを放置して、ほったらかすと、
水は腐ってしまうんです。
水もエネルギーです。
だから、水は使わなくてはいけない。
プラスは使わなくてはいけない。
ほったらかすわけにはいかない。
「俺、源いてるから大事にしまっておこう」なんて
押し入れの中にしまったら腐ってしまうんです。
それを使う。
使ったときに、正しく使えたのがこれが徳なんです。
徳を積む繰り返しができている人。
これが2番目。
3番目。
そこに適材のお仕事がある。
1・2・3。
「観い」・「徳」・「適材」。
これがパックになっていることが、これが天職。
でもね、天職だけじゃないんです。
赤い糸もそうなんです。
2人カップル、観いが大きい同士。
自分のない繰り返し、徳が積める同士。
そこに愛情があり、夫婦としての契りが結ばれて、
戸籍上夫婦であれば、赤い糸夫婦なんです。
ところが世の中を見てみると、
それはもう面談で(直接お会いしていますから)一番間違いないんですけれども、
仲がいい夫婦でも、愛情がみなぎっている夫婦でも、
1番・2番ない人ばっかり。
だから、愛情があっても、お互いにマイナスを刻んでいるんです。
腹を探りあっているんです。
だから、観いが互いに下がっているんです。
要は、赤い糸も天職も何が一番大事かいうと、
人間完成につながる条件付けでなければ、
赤い糸・天職という決め手にはならない。
そこなんです。
だから自己流ではダメなんです。
だから天職。
「頭を取ったら、天職を歩めますか?」
頭を取ったら、観いが使えます。
自分のない繰り返しができます。
徳が積める自分になります。
大いに、天職の条件を2つ勝ち取った。
でも、頭を取っている方に申し上げなくてはいけないけれども、
その2つが使える自分で仕上がるあの修行を終えて、
それが繰り返されていることが条件で
そこに適材がないと天職とは言えないから
先ほどは、「天職大いに第一歩を踏み出した」
こう言わざるを得ないんです。
でも、頭を取った方は観いが使えるんです。
徳が積めるんです。
だから、そこに時間労働であっても
天職として位置づけられる位置があてがわれる。
これをもって天職。
わかりましたか?
人生舐めてはいけません。
自己流ではいけない。
「そんなこと言ったって、いいじゃないか。固いこと言わんようにしようや」
「まぁ、飯が食えればいいじゃないか」
「家族がまぁまぁ、健康でやっていればいいじゃないか」
これは世の中の解釈。
法則はそれではOKは出さない。
どこでわかるかといったら、
必ず生活の現象でわかってきます。
何といっても最後の死にざま。
人生終わる時の仕上げ。
そして、それを残してやる。
子ども、孫に残してやる置き土産。
ひいてはトータル先祖に対しての
御供養ができることになるかどうか。
これは全部、人生最後のお勤めが終わる時の
一歩前の死にざまでみんな示される。
これが、最後の通信簿なんです。
その時に「しまったー」と言ったら、
まず、もう1回出直しなんです。
人生出直す時には、
この人生の最後の死にざまプラス・マイナスと
徳と業の配分がそのまま死にざまとなります。
それがそのまま次の人生のスタートの条件付けになるんです。
だから、おぎゃーと生まれた時になぜ不平等なのか。
五体満足の人もいれば、
手足が不自由な方もいる。
親との出会いの中でもって、
徳の高い親に出会う自分もあれば、
徳のない、目先ばかりの損得勘定丸出しの親との出会いもある。
すべては、その人が前の人生終わる時の終わり方が
そのまま次のスタートラインで位置づけられるから、
もっと次の人生は険しい、
ということがこれでわかります。
もう1つ。
その時に天との出会いがあれば、
頭を取る土俵があればいいんですけれども、
なかったら、もう墓穴を掘ってしまう。
だから天声曰く、
「この人生で仕上げなかったら仕上がらんぞ」
これなんです。
「俺の人生じゃないか!」と言ったって、
俺が勝ち取ったんじゃないんです。
「俺が人生行ってくるぞ」と決めて、
スタート切ったんじゃないんです。
ちゃんと順番が回って、
その家に出会わなくてはいけなかったから
その家に出会って、
そして、今現在人生の途上にあるわけですから。
何も言えないんです。
言えるのは能書きだけです。
まず、法則に沿って正しく自分を扱っていく。
それなくして、家族・子ども・先祖・世の中・人類に対しての貢献は何もできない。
だから、まず自分の正しい扱い方は
観いが使えて、徳が積めて、
そして、その中に夫婦がある。
その中にお仕事がある。
その中に肉体がある。
その中に人生がある。
必ず仕上がる。
(完)