【質問】
頭を取る修行はすぐ受けた方がよいですか。
【ご法話】
修行というのは本の中に書かれてる、あの「頭を取る修行」だと思います。
今60億人※、何をしなきゃいけないか。
※収録時(1999年)の世界人口
まず、頭を取らないと一歩も歩めない人ばっかりです。
これが、世紀末です。
まともな人ほどおかしい。
前回申し上げました。
まともな人ほどおかしい。なぜか。
頭の中は完璧ですから。
情報もしっかり入ってる。
本もいっぱい読んでる。
人生経験も豊富。
その上に学問もある。
それは完璧です。
だから自分を眺めたくなる。
だから、あーでもない、こーでもない。
年の功を出したくなる。
親面したくなる。
自分を出した分ほど、良かれと思っても、
必ずマイナスなんです。
これが足の裏を汚してしまう、
天行力が流れなくなってしまう原因を自分で作るんです。
だから、首から下は空き家なんです。
100個の宝が存在しても
全然使えない状態になっているわけです。
これではせっかくの人生の中の
1日24時間、心臓10万回
それを扱うときの条件として
一つの心臓(の鼓動)たりとも無駄にすることはできません。
だから、首から下に「観い」がある。
その「観い」というのは
頭では、意識では、学問ではどうすることもできない。
その観いをプラスにするためには
プラスにしようと思ったらマイナスですから。
自分がないこと。
プラスであろうとマイナスであろうと、
そんなものに一切こだわる自分がなくなったときに
首から下が活動する。
これがプラス。
先ほども言いました。
ここに縁があったから、
「頭を取らなきゃいけないよ」って言われたから、
義理で取る必要はない。
この頂いた人生の中の80分の1。
その中の365分の1。
1日の使い方を間違うと全てが狂ってしまう。
1日心臓10万回です。
天声曰く、
「5万1以上プラスでないとその1日は終わってはいかんよ」と。
やさしいね。
なぜかといったら
10万に対して2で割ってプラス1ですから。
人類救済も人間完成も全部、方程式はただ一つ。
2で割ってプラス1なんです。
10万を2で割ったら5万。
5万プラス1。
要は、1日終わったときに、
御破算した残りがプラスが残るか、マイナスが残るか。
これで決まる。
でも、頭が付いている方は面談したときに
必ず頭の上から天行力を通してみたらわかるんですけれども、
腰の所で「3」なんです。
「10」の天行力を通してみて首で「5」。
腰で「3」なんです。
「3」ということは10分の3。
10万に置き換えたら3万。
これが頭が付いている方の
これまで面談してきた方々のほとんどの状態です。
この人すごいだろうな。
肩書もすごいな。
わきまえているな。
哲学も学んでいるな。
いろんな宗教でいろんな修行されてるな
という方でも、
天行力通してみたら
そんな人ほど「3」割っているんです。
この前もお坊さんがみえました。
愛媛のお坊さんがみえました。
それはもう、60年間「お坊さんの道」ですから。
それは「人の道」
ちゃんとわかってます。
全てが合掌しかない方ですから。
面談にみえて天行力通したら腰で2.7です。
ということは、
(心臓1日10万のうち)27,000がプラス。残りの73,000がマイナス。
御破算するとマイナスがいっぱい残るんです。
マイナスが残ったならば
今までのマイナスの上に積み上げられる。
積み上げられた分ほど、足の裏がもっと汚れる。
目に見えない世界ですけれども、血液が濁る。
血液が濁れば、それが細胞となる。
それが肉体となり、心となり、表現力となり、顔の表情となり、
だから生活となり、夫婦・家族の状況、それがお仕事となり、
最後は棺桶となるんです。
要は1日というのは
人生トータルの圧縮のチェックなんです。
だから、なぜ頭を取らなきゃいけないかということは、
私のために取ってはいけないんです。
観いを向けてくれた方のために取る必要ないんです。
頂いた以上は
人生を頂戴した以上は
失敗してはいけないから
まず、首から下が使える自分に成るためには
避けては通れないんです。
教義ではないんです。
法則なんです。
それがここでの教義なんです。
人がつくった教義、世の中いっぱいありますけれども、
それでは人間完成はできない。
それは、心は癒されます。
何か、仏壇に向かって感謝はできます。
そして、人に対してのお説教はできます。
ところが、首から下のよろこびが源いてくるかといったら、
そのお坊さんも・・・。
「源いてますか」
そうしたら、そのお坊さんが「感謝です」。
それは仏門の世界ですから。
人に施す、いわゆる感謝をする
これはもう、ちゃんと定番です。
それを60年間やれば「感謝です」。
その雰囲気もきまってます。
頭を剃って
そして、姿勢が非常に柔らかくて
そして「感謝です」。
こう言えば、ムードは完璧です。
でも、感謝ができることも
まず、よろこびがなければ本当の感謝はできない。
「それはあなた、頭で感謝してるんじゃないですか?」
案の定、「そうでした」。
「だから、今日ここに来たんです」
だから、みんな頭ではすごいことは分かっているんです。
すべて知り尽くしているんです。
それは立派な方ばかりですから。
でも、首から下が使える人は本当にいないということです。
でも、首から下が使えなかったら、答えは出ません。
なぜか。徳が積めない。
自分のない繰り返しは、まずできません。
自分のない繰り返しができなければ
まず法則がその人を認めてくれません。
これがマイナス。
これが業なんです。
認めてくれたときがプラス。
それが徳。
これが人生仕上がるただ一つの条件付け。
あとは、何にも条件ない。
どれほど、財産残したとか、
どれほど、子どもたちにすばらしい学校に入学をさせることができたとか、
肩書を、どれほど名誉職を連ねたといっても
それはこの娑婆だけの世界。
法則は一切それに関知しない。
じゃあ、そんなものない方がいいのかと。
あったに越したことはない。
でもまず、その1歩の条件は
「人間完成の道が歩めている条件の中で
名誉職が、そして知識が、これがあればよりベターである」
ということなんです。
わかりましたか。
なぜ、頭を取らなきゃいけないのか
自分が一番よくわかっている。
(完)