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福永法源師 ご法話拝聴

主題:「キリスト教」と「キリスト」の違いについて

【質問】
キリスト教をやりながら天の救済をやっていくことはできますか。


【ご法話】

キリスト教、なるほどね、
素晴らしい所だと思うんですが、
でも、しょせんは「キリスト教団」に過ぎない。
ということならば、キリストとは違う。
だから、どうせやるんだったらキリストを行やればいい。

「教団」というのは人が作った世界。
これは、歴史を通じてちゃんと証明されています。

だから、キリストが亡くなった以降、
お弟子さんだとか
そして、キリストに縁があった方々が
「さあ、どうしようか」
ということで寄ってたかって
いろんな絵柄をつくってまいりました。

まず、十字架つくりました。
そして、いろんな聖書も作りました。
でも、あれはキリスト教の象徴であって、
キリストそのものではない。

これはキリストだけではないです。
日蓮でもそうです。
そしてまた、あの中山みきさんでもそうです。
谷口雅春さんでもそうだと思います。

とにかく、その人を通して表現されるもの。
それと、まわりが寄ってたかって表現したがるもの。
これは、天と地ほど違う存在にある。

だから、この超宗ちょうしゅうっていうのは、
すべてのそういった頭アタマの世界を超えたもの。
教義を超えたもの。
それがここでの教義なんです。

だから、はるかに超えたものは何かというと、法則しかない。
この天地の法則。この法則の中に我々人間完成の道があるのです。
心臓が動いている人なら、必ず仕上がる条件付けをもっている。

ところが、首から上の自分の世界の扱い方でイエス・ノーが分かれるわけです。
それをキリストはあの十字架で
「身の奥にあるもの、心の奥にあるものを見よ。
文字に書けない文字を読みなさいよ」

ここでいう「目に見えないものを見よ。
耳に聞けないものを聞け。
生かされ生かす、人間法源を発見せよ」

まさにこれがキリストの観おもいなんです。

ところが、キリスト教はそれを活字にして、
そして学ぶ世界
それとの対比にこだわる世界

「自分はどうかな?」
「幸せになったのかな?」
「聖書通りの生活ができたのかな?」
とチェックをする自分。

このチェックがある以上は
やはり自分の世界が濃厚にあるということでもって、
キリストとは大きな差を意味するわけです。

だから結論は、
キリスト教をもしやりたいんでしたら、
頭アタマを取って、観おもいが使える自分になってやってください。
そしたら、それがキリストを行やることになる。

自分があって、キリスト教をやる以上は、
もう活字の世界、聖書の世界、あの十字架の世界。
キリストは何もそんなもの残そうとしたわけではないのです。

「人間の中にある本物を開眼せよ」
ここの違いです。

だから
最後の救済として、
天が下ったこの超宗ちょうしゅうというのは、

キリスト教をやるのではなく
キリストを行やるところ。
仏教をやる所ではなく
釈迦そのものを行やるところ。
日蓮宗をやるところではなく
日蓮「南無妙法蓮華経」と
悟った瞬間を行やるところ。

まさに、頭アタマが取れて観おもいが使えて
そして、自分のない繰り返しが歩める自分になるところ。
これを第一義となす。

その条件付けができたならば
それはいくら(首から上1割で)お遊びしたって
くっついてるもんですから、
どうぞお遊びしたっていいんです。

「今日はキリスト教に行こうかな」
「今日はこれやろうかな」って言ったって、
首から下9割がもう安定しているんですから。
人間完成の道が歩める条件付けを持っているんですから。
あとは、時間とともに
どうぞ、お遊びして結構だろうと思うんです。

一番大事なことは、自分が自分でたどり着かなくてはいけない。
血も涙もないけれども
これが愛そのものなんです。
これがルールですから、誰も助けてくれない。

自分で助かる条件を持っているのですから。
それを切り開く。
それに対して、誰も邪魔をする権利はこの地上の中にはない。
ということになります。

結論は頭アタマを取って、首から下の自分が使える自分になったら
どうぞやりたければやってください。
これが結論です。

(完)

「写経」と「法筆」との違いについて

なぜ頭を取らなければいけないのか。

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