私は、4人きょうだいの次女として高知県に生まれました。私が小学校に上がる前、両親は嫁しゅうとめ関係のもつれなどから、同居していた祖父母の家に長女を残し、3人の子どもを連れて愛媛に引っ越しました。私は友達と元気に遊んではいましたが、両親がよくけんかをしていたせいでしょう、親の顔色をいつもうかがう子どもでした。
幸せな結婚を夢見たものの現実は
高校卒業した私は、結婚までの数年間、事務の仕事に携わりました。若い女性の例にもれず、私も幸せな結婚を思い描いていました。両親が反面教師で、自分が結婚したら、絶対に夫婦仲良く温かい家庭を築こうと夢見たものです。
知人の紹介で結婚したのは、22歳のときでした。長男に続いて長女を授かりましたが、長女は1歳の誕生日を迎えることができませんでした。このことで夫婦仲に亀裂入り、5年間の結婚生活は終止符を打つことになってしまいました。
私は夢とは裏腹の現実に直面しました。それでも、私はありとあらゆる仕事をしながら、私は女手ひとつで長男を育てました。それから2年後、私は二度目の結婚をして関西で暮らすようになりましたが、現実生活はまたもや理想とはかけ離れていました。夫がまったく仕事をしてくれず、私が家計を支えなければならず、どん底の生活をすることになったのです。
原因は喜んでいない自分に
そんなある日、人生を変えるチャンスが訪れました。介護の仕事帰りに1冊の本をいただいたのです。私はその本に書かれている真理に衝撃を受けました。幸せを思い描くのと反対に不幸に見舞われる私。――原因は喜んでいない自分にあり、出会う相手は類の法則そのものでした。大自然の法則に沿った生活に目覚める方法が、その本の中に明快に書かれていました。本を読み終えたとき、この現状を打破して、自分が生まれ変わるためには、「頭を取るしかない」、と思いました。
頭を取った私は、「人間はよろこびの表現体」に目覚めることができました。おなかの底からよろこびがわいた瞬間を忘れることはできません。しかし、私は忙しさにかまけて、自然の法則に沿った生活の基本となる三法行(さんぽうぎょう)の繰り返しが、なかなかできなかったのです。その後は、闘病生活を送るようになっていた夫を、看病のかいなく、見送ることになってしまいました。
三法行を繰り返し、家に流れているものを変え
それから3年後、私は知人の紹介で三度目の結婚をしました。主人は、私の二人の子どもたちを受け入れてくれる優しい人でした。
繰り返し三法行ができるようになったのは、それから5年後のことでした。地域の方がお声をかけてくださり、関西よろこび家族の和の集いに足を向けたことがきっかけでした。家族愛にあふれ、温かい雰囲気の中で、私は癒やされ元気をもらいました。
私はこうして三法行を繰り返し、嫁いだ高橋家の家に流れているものを変え、さらには早世した長女の供養もでき、本当に肩の荷を下ろせた気持ちで、次第に日々がよろこびに包まれたものとなっていきました。
幸せは自分の中に
自然の法則に沿った毎日がうれしくてたまらず、私は感謝の気持ちで、超写経のすすめ教室などを開催させていただくようになりました。すると、笑顔がすてき、あなたの言うことならやってみたいと、三法行をやる方が一人また一人と増え、一緒に楽しく実践するようになりました。大勢でやればやるほどよろこびが増します。難病の方で、病院に通いながら三法行を行うようになり、内面から変わってきた様子に、担当のお医者さまが驚いたと、よろこびの声を聞かせてもらったこともあります。皆もともと、問題とは無縁、よろこびそのもののはずなのです。
こうした中で、この上なくうれしかったのは、大切な主人が一緒に三法行を行うようになったことです。琵琶湖湖畔にある館(やかた)で行われている行事にも参加して、温かい空気と皆さんのまごころに触れ、自然の法則にも次第に親しむようになりました。主人も健康・家族愛・よろこびの日々を送り、私も気がつけば、自分の中にあった幸せの種が芽吹き、生長の後、花を咲かせていたのです。
振り返れば、両親を好きになれない自分で、またその自分が嫌いでした。今、やっと両親に感謝のおもいがわくようになりました。自然の法則との出会いがなければ、どうなっていたことでしょう。今では、一人でも多くの方に人間本来のよろこびに目覚めていただけるようにと願ってやまず、ご縁のある方に自然の法則をお伝えする毎日を楽しく送っています。