私は、終戦の前の年に中華民国で生まれました。その年、母は、生後3ヶ月の私を連れて中華民国から引き上げ、父は終戦を迎えて帰還しました。
自然の中でのんびり自由に育ち
当時の生活は大変だったはずですが、それを感じさせないほど、のんびりと自由に育った気がします。辺り一面田んぼの真ん中にポツンと立っていた小さな家は、年中遊びにはもってこい。弟2人と、ザルやバケツを持って春はドジョウやフナっこ取りで毎日泥だらけになり、夏は蛍狩り、秋はバッタ取り、冬は雪合戦、サッカー、どっこすべり(げたスケート)と、遊んでばかりいました。
反面、体が弱く、めまいがして歩けなくなったり、足を病んで一晩もんでもらったりすることもありました。そんな私を父はリヤカーに乗せて病院に連れていってくれたものです。
事務職員として何人分もの仕事をこなし
学生時代は、引っ込み思案で人前に出るのが苦手の反面、周囲に人がいないと不安なさみしがり屋で、皆には「ペコちゃん」というニックネームで慕ってもらいました。
社会人になって就職したできたばかりの会社では、唯一の事務職員として、何人分もの仕事をこなして、日々残業に明け暮れたものです。体を心配した母の薦めで転職後、結婚しました。
夫の事故死後、とある社会教育団体に
そんな私が大自然の法則に出会ったのは、平成元年のことでした。私は、かけがえのない夫を事故で失ってから、とある社会教育団体に所属して3年間活動しながらも、活路を見いだすことができないでいました。
出会う全ての方に頭を取ってもらいたいと
1冊の本との出会いがあり、本の内容に衝撃を受けた私は、問題の原因である「頭」を取りました。頭が取れると、出会うすべての方に頭を取ってもらいたいと思いました。外回り仕事をしていたので、自然の法則の本を車に積んで、出会ったご縁のある方にお渡ししていました。地域の方に天声を聞かせてあげたいと、地元の方と一緒に、法源法主さまの講演会の準備に走り回りました。その年3回、講演会を開催しました。
家族もよろこびと健康を手にして
私の変わりように、中学生だった娘、病気がちだった小学生の息子、父の死をへてそばで暮らすようになっていた母も、「頭」を取り、よろこびと健康を手にし、三法行(さんぽうぎょう)を繰り返すようになりました。
その後、母が家を見てくれて、私と娘と息子は、それぞれ上京して、本部で自然の法則に沿う毎日を送らせていただきました。母も一時期上京していたことがあり、今では一番の思い出です。
人のお世話がうれしくてたまらず
2000年が区切りで、地元に帰ってからは、しばらくあれこれ考え込んでしまうようなことがありました。でも、天華十法(てんかじゅっぽう)が示され、毎月1日の「天と向き合う日」に参加するようになってから、少しずつ落ち着きを取り戻したように思います。
それからは、人類救済のプログラムに一つずつ参加すると、本来の、人のお世話がうれしくてたまらない自分になっていきました。
人間塾・聖茶道行も楽しく、実になったと思います。
友人が、大きな悲しみを乗り越え
その過程では、ある友人が三法行を通じて、大きな悲しみを乗り越えるお世話ができたことが、何よりのよろこびとなりました。
これからも、天華十法と、自然エネルギーを豊富に含んだ食材を感謝いっぱいでいただく天華食の生活を皆さんとともに繰り返しながら、大自然の法則を伝えていきたいと思っています。