私が自然の法則に出会うきっかけになったのは、母の認知症でした。ヨガ講師として生徒や周りからも信頼され、常識もあり人格もまともで何の問題もないと自負していた私。「もっと同僚や先輩から認められたい!」「もっと周りから感謝されたい!」と一生懸命努力していたとき、実家の母が認知症になったのです。
この世に苦労するために生まれてきたような母
私の母はこの世に苦労するために生まれてきたような人でした。戦争で焼け出され、大阪の焼け跡に小屋を建てひとりで生活をしていたとき、父と出会ったそうです。父は異国で終戦を遅くに知り、帰国しても身寄りもありませんでした。父は、母の小屋で雨露をしのがせてもらったことから、母と協同生活するようになり、その後私が生まれたそうです。
お大師さんの日に生まれ
私が生まれた日、父は「女の子が生まれた! おだいっさん(お大師さん:弘法大師空海のこと)の日に生まれた!!」と大喜びで踊りながら近所中、一軒一軒報告して回ったそうです。私が1歳になったころには家も建ち、幸せな日々を送り始めていたのもつかの間、「ジェーン台風」による水害で、家は安治川の底に沈み、それからはずっと仮設住宅暮らしになったと聞きます。
酒浸りだった父が病気で倒れ
物心ついたころの父はいつも酒浸りで、私は父とまともに話をした記憶はありません。母は私たちを育てるために、幼い弟2人を家に置いて身を粉にして働いていました。どん底の生活で「子供だけが生き甲斐や! あんたらだけが、私の命や!」「お金さえあれば幸せになれるのに!」とよく言っていました。
子供3人がそれぞれ家庭を持ち、母が「さあ、これから楽になれる!」と思った矢先、父が病気で倒れ入院してしまい、恨みつらみのある父を母はまた長く看病することになり、その後、つらい看病生活で疲れ果て、倒れてしまいました。
父の看病疲れから母は認知症に
そのまま認知症へと進んでいった母は、今までの人生で刻んで生きてきた「苦」が一気に噴出してきたかのように、「お金を取られた!」「物を取られた!」と誰へともなく繰り返すのでした。形相まで変わった母のあまりの様子に、弟夫婦も近づかなくなり、近所の人も、ヘルパーさんさえも遠ざかっていってしまいました。
私は、長女で常識あるヨガ講師の立場からして逃れることはできませんでした。「せめて一生懸命頑張って看病していることを、兄弟や家族に認めてもらいたい!」と願い、イライラしながら看病していました。
「人間はもともと喜びの表現体である!」
やってもやっても誰からも認められることも感謝されることもない認知症の看病は、まるでアリ地獄にはまったかのようでした。娘の顔も見分けがつかなくなった母の悪態を聞いていると、母への恨みや憎しみがこみ上げてくるのです。「早く死んでくれたら」と思うことも多々ありました。
そんなある日のこと、私はふと手にした本を一気に読み終え、「人間はもともと喜びの表現体である!」「人間は心臓が動いてさえいれば、どんな人でもよみがえることができる!」という言葉にくぎ付けになりました。病院ではこの病気はもう治らないと言われたけれど、まだ心臓は動いている母!! 私はこれに賭けてみようと思ったのです。
頭が取れて、母は心穏やかで健やかに
ワラをもすがる思いで母と2人で、本の中にあった「頭を取る」過程を終えて、三法行(さんぽうぎょう)を始めました。すると、母は不思議と心穏やかになり、素直に一緒に三法行を繰り返しました。
あれほど病院に行く足が重かった私が、母と一緒に三法行をするために病院に行きたい自分に変わっていました。嫌いだった母がいとおしく、母に対し遠い昔のなつかしくうれしいおもいが込み上げてきました。母と深い部分でつながったような実感がし、「本当の親子に成れた!」と思えたのです。「お母さんありがとう!!」と母への感謝のおもいがわき上がってきました。
両親も「赤い糸夫婦」そのもののように
母は今でも認知症ですが、グループホームで毎日、三法行の法唱・法筆を欠かさずに、当たり前の日課として楽しく行っています。グループホームの仲間は、症状が進行したり入院したり亡くなったりしていますが、母の症状は少しずつ回復し、臓器の状態も安定して毎年元気になり、感謝しています。
父は88歳で安らかに亡くなりました。亡くなった瞬間は、周囲がそれと気付かないほど穏やかで笑っているようでした。晩年はいつもニコニコ笑顔、たまに母と会っても夫婦仲も良く、何のこだわりもない「赤い糸夫婦」そのもののようでした。
親子も魂でしっかりつながり
こうして、三法行を繰り返してくる中で、両親の仲も整い、自然の法則に沿った「赤い糸夫婦」として歩めるようになっていました。また、母と魂でしっかりつながっているのを実感させていただいています。
大自然の法則に沿って歩むすばらしさを、全ての方々に体感していただきたいと思っています。