私は、兄と妹の真ん中の長女として新潟県に生まれました。病弱で入退院を繰り返しだった父は、仕事に就いても長続きせず、普段は優しかったものの、お酒を飲んでは母を困らせていました。
思ったことも言えない性格で
頑張って家族を守ってくれていたのは母でした。正直なところ、生活は苦しかったと思いますが、母は、私が欲しいと思うものは、人から譲ってもらったりして用意してくれたものです。子ども時代の私は、そんな両親の下で、大変おとなしく、いるかいないかわからないほど内気で、思うことも言えない性格でした。
突然の父の自殺
高校3年の秋、突然の不幸に見舞われました。私がぜん息の発作で入院しているとき、父が命を絶ってしまったのです。知らせを聞いたときには、ただぼう然として何の感情も出てきませんでしたが、一瞬、それまで苦労してきた母が楽になるんじゃないか……とも思ったのです。でも、なぜか亡くなった父の前で声を上げて泣いていました。お葬式が終わり、私が病院に戻るとき、私は気丈な母の涙を見ました。
就職して家を出て
その後、兄も結婚し、私は就職して家を出ると、隣接した市で一人暮らしをするようになりました。高校時代から家を出て独立し、東京で暮らしたいと思っていたのですが、父が亡くなったばかりで、なるべく母の近くにいてあげようと思っての判断でした。余暇には、やりたいこと、好きなことができて、自由で楽しかったです。
人に流される自分を変えたい
一方、実家に帰る度に母から義姉の愚痴を聞かされいた私は、母が楽になるようにと、人から紹介されたとある宗教施設に通って活動をするようにもなっていました。その後、「ご先祖が見える人」の話を伯父に話したことから脱会することになりました。
そんなことがあり、信じるものはこの世の中にないと思っていました。それを契機に、何より人に流されるこの自分を変えたい、自信を持って生きられる人間になりたいと思うようになっていました。
結婚後、しゅうとめとの関係、息子たちの病気で苦労し
やがて、私は縁あって今の主人と結婚しました。嫁いだのは、自営で人を使い伝統工芸を受け継ぐ家でした。義父は病気で左半身が利かず、車いすの生活でしたが、優しい家族で、皆が義父を支え、明るい家でした。
私は2人の男の子に恵まれ、楽しく暮らしていたのですが、苦労もありました。義母は、病弱で58歳で身障者になった義父を支え、仕事も家も仕切らなくてはいけない立場。なにかと細かく私に言ってきました。私は人に言われて素直にできる性格ではなく、また、思ったことも口に出して言えないたちで、しゅうとめとの関係は我慢だと思っていましたが、心の中には不満が渦巻いていました。
……下の子は45日目で髄膜炎になって入院し、息子たちは2人ともぜん息でずっと病院通いでした。
私は、下の子が5歳くらいから、家事や育児のかたわら、仕事を手伝うようになっていました。
「頭」を取って自信があり、問題を必要としない自分に
こんなある日、大自然の法則と出会うきっかけが訪れました。いただいた1冊の本に衝撃を受けた私は、弱い自分を変えたいと思い、「頭」を取る過程を歩みました。
「頭」が取れると、思ったことを表現でき、自信も持てるようになっていました。これが、家族にとっても大きな転機となっていきました。そんな私の姿を見て、家族も次々「頭」を取って、病気も問題とせず、自然の法則に沿った生活を送るようになりました。
家に流れているものも変え、こうして歩んでいる間に、義母とも仲良くなり、関係がとても楽になっていました。
自殺した父のおもいを変えることができ
私は三法行(さんぽうぎょう)からより高次元の三法行を、休まず楽しく繰り返しをしてきました。また、一時は「天華みのりゆく観音楽団」に所属して、楽しく活動させていただきました。
こうしていく中で、自ら命を絶った父の苦のおもいを変えてあげることができたのです。この奇跡的なできごとに父が喜んでいるのがわかり、家族も明るくなっていました。父のことはいつも気になっていましたので、私の使命が果たせたと思い、大自然をつかさどる天に出会わせてもらえて、本当によかったと思いました。
三法行で周囲の方々もよろこびに目覚め
その後も、いくつか特別なプログラムに参加し、歩んでいる中で、私の周囲に大自然と調和した毎日を送ることのできる一歩となる三法行を実践する人が出てきました。笑顔が中から自然に出てくるようになり、生活が次第に整っていく様子を目にできることは、私にとって何よりのよろこびです。
世の全ての方が、三法行を通じて、人間本来のよろこびに満たされた生活を送っていただきたいと願ってやみません。