大きなよろこびを育んでくれる
「慈喜徳」の素晴らしさ
素直に感謝の気持ちを表すことができる瞬間ほど、人間にとって幸せなことはありません。
まして、それを一度や二度ではなく、ずっと繰り返すことができたなら、ゆたかな心をぐんぐん育め、満ち足りた観いを源かせる毎日を味わえます。
そこには物事に執着しない(打算のない)安らかな自分がいて、地に足の着いた生活が整います。
私たちがこうして天に生かされていることへの感謝を、ささやかでも形にさせていただく。
決して無理せず、一日に何度でもその感謝を表現することができる。
計算すると身につかず、計算しなかったらこみ上げるよろこびがある。だから、何の見返りも求めず、身銭を切らせていただく。自分の手から、自分の領域から「手放す」ことで、より大きなよろこびが源いてきます。
この「慈喜徳」の繰り返しは、生活の端々で駆け引きにほんろうされ、何かと計算をして、こだわってしまう疲弊した自分をなくさせ、代わりに感謝とよろこびにあふれてきます。
自らやることが楽しくてしかたなく、それが毎日、何度でもできる。ワクワクした気持ちとともに、やらずにはおられないそのよろこびが徳の厚みを増していき、その人の輝きとなる。
私たちを動かし続ける心臓は、一日も休まず、ただ繰り返しのリズムを打ちます。慈喜徳も休まず繰り返しやらせていただくことが大きな力となります。
三法行の実践とともに観いが正常になり、生命体が活かされる。生活の中で愚痴や不平不満をこぼさない自分に気づいていくことでしょう。
今日一日、ありがとうございます。
慈喜徳人生の繰り返し ありがとうございます
あなたに出会えて ありがとうございます。
産んでくれて ありがとうございます。
お父さん、お母さん ありがとうございます。
育ててくれて ありがとうございます。
健康な体をいただいて ありがとうございます。
働かせていただいて ありがとうございます。
いろんな試練を与えてくれて ありがとうございます。
今日も太陽の恩恵を受けて ありがとうございます。
一滴の水、一粒のお米に ありがとうございます。
今日一日、生かしてくれて ありがとうございます。
ほとんどの日本人は、お正月には神社・寺院へ初詣に行きます。そして、賽銭箱に金銭を入れた後、目を閉じ手を合わせて、神仏へのお願い事やお礼を心の中で唱えます。また、仏教の実践項目のひとつとして功徳を積むため金銭や物品を寺社や生活に困っている人に差し出す布施・喜捨があります。
「慈喜徳」とは、自分ができる範囲で、何の見返りも求めず身銭を切ることです。
自分の手から、自分の領域から「離す」。そこには、計算がありません。計算がない繰り返しは、いままで経験したことがない「答え」をもたらします。
学校や社会で学んできたことは、自己の利益やメリットを最重要視します。それとはまったく逆で、計算すると身につかず、計算しなかったら身につくのです。
見返りを求めず、計算がない繰り返しの慈喜徳により、なぜかよろこびが源いてきます。
5円でも10円でも、ときとして1億円でも、生活を営むのに不可欠な、命に匹敵する道具を自ら手放すことで、自己への執着(こだわり)と無縁になっていく。お金では買えないこのよろこびは、どんどん大きくなっていきます。
金額が目的ではありません。金額にはこだわらず、「ありがとうございます」の言葉とともに繰り返すことが大切です。
朝、東から昇った太陽は、1日も休まず、見返りを求めず、ただ万遍なくこの地上にエネルギーを注いでくれています。よろこんで身銭を切らせていただくという計算がない観いが、たとえいまどうであれ、すべて整えてくれるのです。