お釈迦さまの感動の言葉【天声解説 [般若心経] 】
釈迦が説いた真の般若心経とは、見返りを期待しての「行い」ではありませんでした。 なにも期待せずにやる…。 その繰り返しの中で、はじめて真の「般若心経」があなたのものとなる── 釈迦が真に説きたかった真理を、般若心経の世界から解き明かしてみましょう。
●はじめに
●般若天行は「人間になる」ための最高の知恵
●人生は観いのまま自由自在
●器が大きい人はすべてを活かす
●釈迦が真に説きたかった「空」の世界
●こだわるほど、大自然の法則から離れていく
●悟りとは今を最高に生きること
●頭を取れば、いやでもよろこびが源く
●七観行とは人間本来の姿
●三法行により、般若心経は「天行」となる
弟子たちが釈迦に尋ねました。
「人間はなぜ、この世に生まれてきたのでしょうか」
釈迦は答えます。
「かぎりあるこの人生で行るべきことがあるからだ」
弟子たちが問いかけます。
「人間はなぜ、苦しまなくてはならないのでしょうか」
釈迦は説きます。
「人間が苦しむのはこだわり(自分)があるからだ。
こだわり(自分)は尽きることがないのだから、苦しみも尽きることはない。
こだわり(自分)を無くすには、このこだわり(自分)の根源である
頭(
人間は頭(
「心からの喜び」を失います。
ご利益を求めることは見返りを期待すること。
見返りがないときの虚しさ。
期待を裏切られたときの悔しさ。
自分の中にこだわり(
その先に待っているのは、「のに」の世界。
「これほど熱心にお経を唱えたのに……」
「こんなにたくさん写経したのに……」という恨みの世界、憎悪の世界。
生きていてもつまらない人生。
「やる気」もわいてこないし、「希望」もあふれてこない。
待っているのは繁栄とはほど遠い暗い生活。
これでは、「般若心経」の真の世界にはけしてたどりつけません。
釈迦が説いた真の般若心経とは
見返りを期待しての「行い」ではありません。
なにも期待せずにやる…。
繰り返し唱える、ただただ繰り返し唱える……。
繰り返し書き写す、ただただ繰り返し書き写す……。
ひたすらやる、ただただ繰り返しやる。
その繰り返しの中で、
はじめて真の「般若心経」があなたのものとなる。
あなたが大自然のリズム(波長)と一致したとき、
「最高のよろこび」が理屈を超えて
あなたの体の奥底から
「行い」のおかげではありません。
奇跡でも、不思議でもなく、
あなた自身に備わっていたものが、
釈迦は説きます。 「なぜ、救いを求めるのか。
苦から逃れようとすれば、
苦にこだわる自分にまた苦しまなくてはならない。
なにものにもとらわれるな。
なに一つ無理のない
人間本来のあるべき姿に戻りなさい。
人間はもともと救われている」
人間本来のあるべき姿とは、
苦の中にあって「苦」を「苦」としない自分。
現実がどうであろうと、
無条件で「最高のよろこび」があふれる自分。
これこそが「空」
釈迦が説いた「観自在」の世界。
願い、求め、すがるだけの「心のお経」では
心の安らぎは得られても
真に自分を変えることにはつながりません。
願わず、求めず、頼まず、
ただやったときに
心のお経(心経)が心の行(心行)となり、
大自然のリズム(波長)に自分を沿わせていくうちに、
あなた自身が大自然そのものとなる(
気がつけば、こだわり(
自分の中から「最高のよろこび」があふれてきます。
生活にこたえが出る唯一の方法は
「心のお経である心経」ではなく、
ただ繰り返し(天)を実践(行)する「
「
(人間として「最高の生きざま」を残し、「最高の死にざま」を迎えるために)
「
人間として大自然のルールに沿った存在となり、
「人間に成る」方法を示すものです。
「人間は天に生かされ、法によって人間に成る」
よって、「
法説から始まっています。
(観自在、般若波羅蜜多の行をおこなったとき、すべてが空であると照見し、一切の苦厄を超越する)
この25文字のなかに、「
なかでも、最も重要なところが「観自在」。
たとえば、「他人には感謝しなければいけない」とよくいわれますが、
そのことを教えられたり、聞いたとしても、
とても感謝できる自分にはなれません。
感謝しようと思って自分にいいきかせても、
相手の顔を見たとたんに、なぜか憎しみがグワーッと
実はこの頭でどうしようもない自分が「本来の自分」であり、自分の本体です。
「感謝しなければ」と頭では知っていても、
自由自在にならないのがこの「本来の自分」です。
憎しみが
「
自由自在に自分の中(内)から
反対にどうしようもなく喜びが
生活の中で「プラス」も、「マイナス」も
どうしようもなく
頭で抑えようとしても、
どうしようもなく込みあげてくる。
これが自分の本体
「首から下」の「観(おも)い」。
道徳や倫理や常識といったものでは制御できないものが「
大切なことはこの「
そのまま人生をつくるということ。
人生とは運命でも運勢でもない。
手相でも人相でもない。
印相で決まるものでもなければ、墓相で決まるものでもない。
霊もないし、因縁もない。
理屈とか理論でもない。
なにがあるのか。
あるのはただ一つ。
「
この25文字には「人生とは苦である」と断言しています。
その「苦」を「苦」と思わない自分に成るために人生がある。
これは大変なことのように見えますが、
喜びが
喜びが
「苦」を「苦」と
そうなろうとするのではなく、
いつの間にか「そう成っている」自分になれる。
「観自在」というのは、とにかく「
「観ずる」ままの自由自在です。
喜びが
たとえ、不幸とされる状態であっても、
幸福な状態と同じように
「最高の喜び」が込みあげてくる。
そうした絶対の「喜び」を実証した状態が「観自在」。
「観自在」とは欲が消滅した状態ではなく、
欲からさえも「自然の法則」に沿える自分に転化すること。
そのとき、欲は人を生かし、
人を喜ばそうというエネルギーとなり、
その人は太陽のような光を放つ人となる。
一切のこだわりがなく、
自然のままにすべてを「喜び」に転じ、
自然のままに流れていく「人間のあるがまま」の姿。
自分の欲するところがすべて大自然の法則に沿う。
行うことすべてが自分だけでなく相手にも「喜び」をもたらす。
そのさまは泳いでいこうとするところ、
つねに潮に後押しされるようなもの。
「
現象が先にあって「だから最高」、というのは嘘であり、
頭でつくった最高。
無条件の「最高の観い」だけが本当の「最高」。
般若波羅蜜多とは「智恵の完成」。
般若波羅蜜多の「行」とは「智恵を完成する行」。
般若波羅蜜多は現代の私たちにとっては
「活かす」という意味。
「活かす」とは、具体的になにを活かすのか
・出会った人を活かす。
・家庭を活かす。
・職場を活かす。
・社会を活かす。
・世界を活かす。
自分を活かすのではなく、
周囲の一切を活かす。
最終的に「活かされること」を求めなくても
自分が活かされていく。
自分にこだわることは駆け引きになる。
無意識に自分の吐く言葉や行動が
周囲を活かす。
これが智恵のある人間
そういう人間は周囲からも活かされる。
ここで間違えてはいけないのは、
「智恵」と「知識」
自然と
「知ると成るとは無限の差なり」
「知識があるほど、無知な人間はいない」
智恵は人間が生まれたとき、
すべて平等に天から授けられました。
智恵は無限
使い方や組み合わせで二乗にも、三乗にもなります。
智恵の正体は大自然の法則そのもの
智恵とは人生最大の道具。
この智恵が
自分にこだわっている人からは智恵はまったく出てこない
器の小さい人は無理して智恵を出さなければなりません。
器の大きい人からは「
智恵が
「喜びの
智恵は「喜び」の表現、
「喜び」の表現が人間の器、
その器に「喜び」の現象が魅きつけられる。
(見るもの=物質は「空」にほかならず、「空」は物質にほかならない。つまり、物質はすべて「空」であるから、それを感じたり、意識したり、欲したりすることも「空」なのである)
「
願わず、求めず、頼まずの「行」が中心であり、
人類の永遠不滅を約束する「行」の言葉。
「
「空」とは「ただ」。
「ただ」こそ万物=大自然の「繰り返し」の法則。
「ただ」、「繰り返す」という大自然の法則は
願いもしなければ求めもしない。
決して頼まない。
ただ繰り返しているだけ。
「色即是空」
形あるものはすべて「空」。
すべて大自然の法則に沿ってただ「繰り返し」。
人間もまた「色即是空」
その営みは「ただ繰り返す」のみ。
「
人間の中には7つのよろこびの
人生はあなたのよろこびの
その中の一つ「健康あふれた楽しい毎日です」。
病気に悩んでいる人が必ずこう質問してきます。
「私はいま病気なのに、『健康あふれた楽しい毎日です』と、なぜ言わなくてはならないのか。
『健康あふれた楽しい毎日にしてください』ならわかる。
それでなければ嘘を言うことになる」
しかし、それは間違っている。
本来の人間は健康そのもの。
目に見えない「首から下」の本来の自分(自分の本体)には健康だけがある。
そのように天から「命」を授かっている。
「苦」を刻んだ自分。
その結果が病気。
それをまた「苦」にしたら、
次は家族までも暗くさせてしまう「病人」へと向かう。
「この病気を治してください」と言葉に出して言うと、
さらにまた一つこだわりの「苦」を刻む。
「健康あふれた楽しい毎日です」と
「本来の自分の姿」を素直に言える生活
健康がほしいから言うのではなく、
「本来の自分の姿」を堂々と口に出して言える自分になること。
「本来の自分」を口に出していうことが私たちの「行」、
そこから目に見えないもの(本来の自分)が見えてくる。
病気であっても、
病気が「苦」にならなくなる。
病気である自分や病気にこだわらなくなる。
それが、「
意識しない「願わず、求めず、頼まず」。
これが釈迦のいう「空」の世界。
意識して願わないようにしようというのではなく、
願わない自分に成っていればいい。
「願わず、求めず、頼まない自分に成る」ことが真髄。
「首から下」の自分の本体(本来の自分)にすべてが備わっているのだから、
そのまま引き出せばいい。
「本来の自分」を引き出す方法が
「ただ繰り返す」という大自然の法則に沿うこと。
(もろもろのものはすべて「空」である。生じたり減じたりもしないし、汚いもきれいもなく、まして増えも減りもしない。したがって、受=感じたり、想=表れたり、行=しようとしたり、識=わかったりもない。眼も耳も鼻も舌も身も心もなく、物体も声も、香りも味も法もない。それらのつくる世界もない。)
人間にとって一番難しいものは
公務員試験でもなければ、司法試験でもありません。
一番難しいものは目や耳や舌で感じるもの
欲望の存在に自分が振り回されたり、支配されないこと。
禅僧はその煩悩を断ち切るために坐禅を組み、
荒行をし、山ごもりもします。
人間は木や石ではないから、
美しいものを見れば美しいと思い、
いい匂いを嗅げばいい匂いだと思い、
美味しそうなものを見れば食べたくなる。
眼、耳、鼻、舌、身、意(こころ)の六つは、人間に生まれながらに備わったもの。逃げるわけにはいきません。
この六感があるために人間にはまた悩みが生まれる。
「すべては空であるから、そんなものはない」とはどういうことか。
人間はこの六感を使って
現実の日々を暮らしています。
「そんなものはない」といわれても、すぐに納得することはできない。
腹もすけば、お金も欲しい。
きれいな服も着たいし、恋愛もしたい。
それらがすべて「空」、
「ない」というのはどういうことなのか。
釈迦はそれらを「錯覚」だと言うのか。
「空」は「無」ではない。
「ただ」。
万物=大自然の繰り返しの法則。
一切の駆け引きがない「繰り返し」。
駆け引きのない「繰り返し」を行う時、
その世界にこだわっていた自分が消える。
それが「空」の本体。
世の中には、この「空」を「無」であるとする人がいます。
これは間違いです。
「無」には「有」という反対がある。
「無」を求めると、「有」が頭をもたげてくる。
禅宗では坐禅をして「無」になれと説きます。
欲望=雑念を坐禅で取り除くことで、「無」になれといいます。
そんなことはできるはずがないし、
やる必要もない。
人間は欲望=雑念の生き物であるし、
大欲がなければ生きているといえない。
欲望自体は悪いものではありません。
欲望をむしろ楽しめる、それに左右されない自分に成ること。
そうしたものがまったく気にならない自分、
それらにこだわらない自分に成ることです。
そのために、「行」をやる。
「行」とは目的を持った「信仰」ではありません。
目的を持たず、ご利益を願わず、求めず、頼まないもの。
「ただ繰り返し」
禅僧のように、欲望=雑念を無理に忘れようとしたり、
荒行で体をいじめて振り払おうとしても、
大自然の法則、リズムに逆らうことでしかない。
なにも効果もないばかりか、大自然の法則に逆らうことになる。
食べたい、お金がほしい、恋愛したい、眠りたいと思う自分がいる。
大切なことは、そうした毎日をこだわりなくでき、 「いま生きている」ことに「最高だ!」と無性に「
「空」を体験しています。
大自然のなかの人間そのものになっている。
「自分であって自分でない自分」に成っているのです。
(無明もなければ、老死もない。また無明の尽きることもなければ、老死の尽きることもない。苦しみもなければ、苦しみの原因もない。悟ったということもなく、得られたということもない。得られたものがないからである)
「空」を知らない存在とは、世にいう煩悩に支配されている状態ということです。つまり、「苦」を刻んでいる状態です。
「苦」とはなんでしょうか。
いままでそれを「こだわりの心」といってきました。
釈迦は人間生活の実態に触れて、わかりやすい言葉でそれを示しています。
「四苦八苦」
「四苦」は「生老病死」の4つ
人間は絶対的なこの四つの苦しみから逃れることはできない、とされています。
「四苦」とは、次の4つ。
1.生まれて生きることの苦しみ。
2.老いていくことの苦しみ。
3.病気になることの苦しみ。
4.死んでいくことの苦しみ。
人間であるならば誰でも経験しなければならない絶対的な苦しみ。
釈迦が出家したのは、この4つの苦しみから人間を救う道はあるのかを求めたものです。
この苦しみから脱するためにはどうしたらいいのか。
人間はこの4つの苦しみのほかにも、日常的な苦しみを抱えています。それは誰でも思い当たる苦しみです。それが次の4つであるといいます。
1.
2.
3.
4.
絶対的な「四苦」と日常的な「四苦」を足して、「四苦八苦」。
「
すべてはただ「繰り返し」、
こだわったときが「苦」。
「苦集滅道」の「集」とは、「こだわり」または執着という意味です。
「滅道」とは、その「苦」と「集」を滅する道。
その道を八正道といい、古い仏教教団のなかで、悟りを開くいちばんの道として行われてきた考え方です。
1.正しく見ること。
2.正しく考えること。
3.正しい言葉をはくこと。
4.正しく行うこと。
5.正しく生きること。
6.正しく努力すること。
7.正しい道を念ずること。
8.正しい瞑想をすること。
しかし、八正道にこだわれば、かえってそこに執着が出てくる。
「
そんなことにこだわらないことこそが、真の「苦集滅道」であり、だから無「苦集滅道」です。
「無老死 無老死尽」とは、「老死もなければ、老死の尽きることもない」という意味です。
「人生とはいまである」ということ。
老死はないのだから、
老死にこだわることによって「苦」を刻むことはない。
老死にこだわらない自分に成るには「行」しかない。
「行」によってしか、そうした自分にはなりえない。
「行」によって、100%の自分に成る。
100%の自分に成るということは、その瞬間瞬間から「最高になれる」。
「最高の瞬間」が次から次へと訪れる。
最高の「いま」がどんどん積み重なっていく。
最高の「いま」が生まれ、
次の最高の「いま」がまた生まれる。
ここでいう「いま」とは、過去に対しての「現在」ではありません。
この瞬間の「いま」であり、
そのたった「いま」のくり返しが、永遠の「いま」となる。
「最高のいま」を生きる人は過去に振り回されません。
過去に振り回され、
「過去にこういう不幸なことがあった。過去にこういう悪いことをした」、
「因縁でいま不都合な状態にいる。なんとかしたい」という人がいます。
「過去なし、悪なし、罪なし、因縁なし」という天の法則がある。
「いま」を最高と「
過去を断ち切るため、
悪業を許してもらうため、
因縁を断ち切るためという気持ちになることはこだわりの世界。
そういう気持ちがあるかぎり、
さらに「苦」を刻むことになる。
次に、「無智亦無得 以無所得故」。
「悟ったということなく、得たということもない。
得られたものがないからである」。
「智もない」については、
「本当の智恵とは知らないことだ」ということ。
「私はこれを知っている」と思っているうちは
知っていることになりません。
知り尽くして知り尽くして、
そしてたどり着いたとき、
「ああ、私はなにも知らなかったのだ。
世界を知らなかった。
人間を知らなかった」と気づかされる。
そう気づいた瞬間に世界が開けてくる。
それが「悟り」。
「無得」、つまりその「悟り」もない。
「悟った」と思っているうちは、じつは悟りではない。
それは、「首から上」の知識の世界=「思い」。
釈迦が「頭(
「頭(
「首から下」の本来の人間に成った状態、
これこそが「
(般若によるがゆえに心に妨げがなく、恐怖もない。一切のすべての逆転した妄想や夢想からも遠く離れ、究竟の涅槃を成就している)
「顚倒」とは、「さかさま」という意味。
逆、つまり真実の逆。
真実は「一切皆空」。
この世にあるすべてのものはみな「空」の姿。
すべてのものは目にこそ見えるが、
その真実相はすべて「空」である。それが本当の姿。
人間には眼耳鼻舌身意があり、
ありもしないものをあるように思い、
それにこだわり、引きずられて「苦」を刻む。
真実から見れば、顚倒にほかなりません。
その顚倒は目覚(悟)めたら消える
夢想の世界です。
そんな世界の影響を一切受けず、
「一切皆空」の真理を悟ると
涅槃の世界に入ることができるのです。
これは「頭(
こだわりやとらわれのない世界に到達するためには、
頭、つまり眼、耳、鼻、舌、身、意(こころ)の6つでつくられる偽りの世界を捨てる。
偽りの世界とは首から下の「
お坊さんの世界では、「般若波羅蜜多」の「行」によって
こだわりのない世界に到達しようとする。
それは「六波羅蜜」といい、
「
この6つを自らに厳しく律し、質素な中に身を置いて
あらゆる欲望から自分を遠ざけようとします。
それは仏教という宗教のなかでの話であり、
生活から離れたところに真理はない。
「
そうした深刻そうな顔をした「行」ではない。
「
「首から下」にある「人間本来の姿」を取り戻し、
大自然の法則に則った生き方をすることが第一義。
一切のこだわりからも、
とらわれからも無縁となり、
「いまが最高!」と喜べる人間に成る。
そのためにまず、「頭(
「頭(
ひたすらに、ただひたすらに繰り返す。
要点は頭を取ること。
ただそのことに尽きます。
こだわり、執着を捨て去るためには、
自分にこだわり続ける「頭を取る」しかない。
そうすることで「いまが最高!」と「
「最高のいま」を生きぬくことができるのです。
(般若によるがゆえに、この上ない悟りを得る)
「この世にないほどの正しい正しい悟り」とはなにか、
最初に出てきた「一切皆空」ということ。
大自然のリズムと合った般若の行=「
毎日ひたすら行ずるうちにおのずとわかってくる。
わかってくるというより、
体の中から体現されるようになる。
「
大自然のリズムそのもの、
「首から下」に備わった「本来の自分」が目覚めてくる。
そのとき、人間と「
人間が生まれたときに天から授かったすべて=「人間本来の姿」が
天から授かった「人間本来の姿」、
それが七観行(ななかんぎょう)です。
一.健康あふれた楽しい毎日です。
二.家族全員がゆたかで明るい毎日です。
三.希望にみちあふれた繁栄一筋の毎日です。
四.喜びがいっぱいの毎日です。
五.感謝にみちた幸せな毎日です。
六.いつも楽しく三法行(人間)を
やらせていただく毎日です。
七.親切あふれた生かしあいゆるしあう毎日です。
※1日30回唱えることで本来の人間に近づいていきます。
天から授かった「人間本来の姿」とは、
この7つをまっとうすることであり、
「生きる=生かされている」とは、
これらを人生80年の間で無上に味わってこいよ、
という天の愛です。
頭によるこだわりや執着によって、
この人間本来の7つの健康的生活を送れない人がいます。
その人が目覚めるのは「一切皆空」という真理の気づきです。
その気づきによって、
大自然の法則に沿った「喜びの表現体=あたりまえの人間」になれる。
この「あたりまえ」こそ、大自然の法則であり、天の法則。
そこには人為もなければ一切の作為もありません。
ただ天の愛があるだけです。
(ゆえに知るべきである。般若は、大天であり、大明であり、無上であり、無等等である。よく一切の苦を除き、それは真実であるから、般若波羅蜜多を説く。すなわち、羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提僧婆訶般若天行)
「一切皆空」の自分になれる方法、
その手段が般若波羅蜜多=知恵を完成する行。
「般若心経」はたしかに人間としての智恵。
真の智恵というのは仏像にあるのではなく、
お経が書かれた紙にあるのでもない。
「首から下」の自分の中にある。
頭の世界、こだわり(
「般若心経」をいくらありがたがっても、
いくら語っても、
頭の中の理論理屈の世界での話。
やるならば、「
「首から下」で「行」をする。
大宇宙の太陽の運行と同じように
ただただ繰り返し「行」ずることにより、
「人間本来」の智恵に目覚める。
智恵を「知る」でもなく、
「学ぶ」でもなく、
修行で「悟る」でもない。
大自然の中の生命体としての人間の智恵は本来、自分の中にある。
自分の中にあったものが目覚め、そして源いてくる。
その目覚めた状態で、さらに「行」を繰り返す。
これが「
そのとき「本来の人間」が源き、
「最高の喜び」のなかにいる。
しかし、それを意識することもありません。
意識することがないのは大自然の波長とピタッと合っているからです。
「最高の
知らないうちに「何もかもが最高!」となる。
「あたりまえの人間の誕生」であり、
「本来の人間再生」です。
いよいよ「人間に成る」という行が完成します。
人間は「楽しく明るく、喜びにあふれて生きよ」と、
天によって生かされています。
天から授かった人生80年は、
そうした人生を自分のものとし、
「人間本来の姿」になるための期間です。
大自然の法則に則った「人間に成る」ための期間が80年。
「あたりまえの人間に成る」要素が「
一人ひとりの「首から下」に秘められている「人間に成る」ための行、
それが人間再生を可能にする「
「
頭で理解しただけでは
生活になにも変化をもたらしません。
「
「
「
座して、生かされていることを素直に喜びながら、ただただ深呼吸を繰り返す法座(ほうざ)。
この3つの法則に沿った行い(
願わず、求めず、ただ繰り返すことによって、
はじめて自分の「
ただひたすら繰り返して行れば
いつの間にか変わっている自分を発見します。
「本来の自分」、つまり、「喜びの表現体」としての自分が発見できるのです。
本を読んでわかったつもりになっても、
「
自分で実行してみて、
繰り返し行ってみて、
実感としてわかる(体現する)ものです。
「
心臓が動いている人間であれば
必ず「よろこびの
真の「喜び」は今、あなたの中(内)にあります。
「何一つ無理のない人間本来のあるべき姿」を自分のものとしたあなたは
「
「最高の喜び」を持って生きる人間と成っています。
2500年前、釈迦が弟子たちに説きました。
「わたしの死後、仏像を造ってはならない。わたしをよりどころにしてはいけない。
この命はどこからきたのか。
天によって生かされているのだ。
わたしはない。
自分はないのだ。
混迷のとき、よりどころにするのは宇宙の真理であり、人間の内なるもの(
釈迦は人を救いたいため6年間の苦行に入りました。
しかし、自分(頭=
「人を救いたい」では救えないことを悟ったとき、
今このままで喜べている(救われている)自分に目覚め、
悟りを開きました。
そこから人々を救う救済の道=釈迦道が始まりました。
弟子たちが釈迦に問いかけました。
「人間はなぜ、輪廻転生を繰り返すのでしょうか」
釈迦が答えます。
「人間が生まれかわらなくてはならないのは
業(マイナス)があるからだ。
業(マイナス)を清算するために生まれてきた。
わたしはもう「生」を必要としない。」
釈迦の最期のことばは
「人生は無常である。
怠ることなく実践し、
それを完成しなさい」
人生は無常だ。人の喜びのために生きよ。
そして「人間に成る」という行を完成しなさい。
「人生はなんと苦しいのか」と、救済の道を歩みはじめた釈迦は
その人生の最期に、
「この人生は美しく、なんと感動なのだろう。
ついに人間という修行が完成する。
皆さん、本当にありがとう」と述べました。
人間は「人間に成る」ために生まれてきました。
「
この80年間で「人間に成る」ための「行」です。
すべての人が最高の人生を手にできる。
それが天から与えられた人生80年です。