大日如来降臨~如来行主と空海の救済魂~
【目次】
はじめに
なにゆえ天は
人間の深奥なるもの
人間の次元(宿命)
伝えきれなかったこと
空海の遺言
現代に天の声を聞く人物
すべての人よ、救済者たれ
さあ、黄金の救済期はすぐそこだ
お問合せ

はじめに

人はこの世に、喜びを味わいに来た。

人はこの世に、感謝をしに来た。

人はこの世に、健康になりに来た。

人はこの世に、ゆたかになりに来た。

人はこの世に、繁栄しに来たのだ。


そう、人はこの世に「人間」に成りに来たのである。


この地上のどこにいようとも、夜空を見上げれば、満天の星々がとてつもない広大さを誇る宇宙の片鱗を見せてくれる。幼い頃、この星々の先には、一体どんな世界が待ち受けているのかと思いを馳せたことがあるはずだ。

いつしか、人々はこの無尽蔵に広がる宇宙空間を指しては「天」と呼ぶようになり、敬い、畏怖の念を抱くようになった。

地球という極小空間に生きる人間を、その大いなる存在は、ときに叙情的にさせ、ときにロマンをかき立てさせては、数々の神話として人々の心に根づいてきた。

壮大にして無類の美しさをもつ宇宙空間は、時代や民族を問わず、人間という一見はかない存在にはとても手の届くことのない広大無辺の存在として、たえず憧れの対象であった。


かたや地上に目を下ろせば、表向きは豊かな社会で、富と豊かな生活を手にするノウハウが世界中にひしめき合っているにもかかわらず、これが実現できない現実に苦しむ人がいる。

なぜかは分からないけれど、常に追い風に吹かれているかのごとくすべてが上手くいく人もいれば、血のにじむような努力を重ねていても、意図する反対方向に向かうように苦難の連続に見舞われる人もいる。

なにより、惜しくも自ら命を絶つ人が後をたたない。


誰もが真剣に生きている。しかし、努力と結果は必ずしも比例するわけではない。

人生には、運の良し悪しだけでは測りきれない「何か」があるということには、現代人たるもののほとんどが薄々気づき始めている。

なにゆえ天は

それだけではすまない。

地上ではいま、同じ人間でありながら、押し寄せる大量の異文化や移民・難民への不寛容が表面化し、かつては人を救うはずだった宗教間の摩擦があろうことか紛争にうって変わり、あげくには国家対立の激化すら招いている。あわや核の過ちをふたたび犯すかという事態に、世界情勢も待ったなしの緊迫感にさらされている。

これらすべて、人間の感情や思考が引き起こしていることは、誰も疑わない。


1日におよそ6万個の物事を考えるとされる人間は、睡眠を除くほぼ毎秒、何かを考えているという。ほとんどの人間が6万回のうち、9割以上を昨日と同じことを考え、なんと8割はマイナス感情だという。

あろうことか、マイナス感情は、またたく間に怒りや妬み、不安、悲しみ、恐怖といったこだわり感情へと変わる。

思考は止めることなどできない。止めようと思っても次々と別の「考え」「雑念」が浮かんでくるし、考えることを止めようと思っても、次から次へと出てきてしまう。

もはや、自分で自分をコントロールできないことなど、誰もが知っていることだ。


「天」というものがあるならば、なにゆえ「天」は、人間を、世界を、このような仕組みに作ったのか──。

言わずと知れた釈迦、キリスト、空海をはじめとする聖人が送り出されたこの世にあって、聖人らはこの仕組みを超越する「法則」に開眼していたのに、それが人々の心に浸透していかなかったのか──。

人類を真の救いへと導くべく多くの先人たちが生涯を賭して尽力したにもかかわらず、よもや人類の存続すら危ぶまれる時代に入ってしまったのはなぜなのか──。


同じ人間として、同じ地球に生きる生命体として、これを知らずして生きていっていいはずがない。

人間の深奥なるもの

釈迦はかくいう。

「生きることがこんなにも苦しいという人であふれている。それは自分の中にこだわりがあるからである。自分の思い通りにならないから苦しまなくてはならない。

だから、この苦しみの原因であるこだわりをなくすしかない。こだわればそれだけ、苦しまなくてはならない。こだわりは尽きることがないのだから、苦しみもまたかぎりなく続くのだ」


往々にして人は、ひとたび体に異変が起きると、「ひょっとしてよくない病気ではないか」と心配する。

「自分はがんで死ぬんじゃないか」と憂う。

「そうなったら家族や子どもたちはどうなるのか」と悲しむ。

がんの手術をしたら、また再発するのではないかと恐れる。

次から次へと生まれる不安と、つきることのない恐怖。そのマイナスのエネルギー(波動)がそのままさらによくない症状へと向かわせる。

そのときには肉体だけでなく、心も病み、家族をもマイナスへと引きずり込んでしまう。


現代、心身を覚醒させる、あるいは超意識に開眼させるという名のもとに行われるいかなるトレーニングも、写経読経さえも、いかなる至高体験をもってしても決して到達しえなかった「深奥なるもの」が人間にはあることを、「天」は告げている。

この「深奥なるもの」の存在に気づくことができれば、人間生命体がこの「深奥なるもの」から大宇宙とつながるパイプを確たるものに築くための人生80年であったことに気づける。

そして、それこそが、人間本来の喜び、健康、繁栄を築く唯一の道であることに。


それは人類の誕生から一つとして変わらない、最大にして唯一の謎とされてきたはずだ。

どんなに歳月をかけて探求がなされようとも、この「深奥なるもの」は、人間のいかなる叡智をもってしても到達できないほど深く、また崇高なものだった。


他ならぬ、釈迦、キリスト、空海らが人類にもっとも伝えたかったことだというのに。


釈迦は弟子たちに、「人生は無常である。怠ることなく実践し、それを完成しなさい」との遺言を残した。

人生は無常だ。人の喜びのために生きよ。そして人間という修行を完成しなさい。

人生はなんと苦しいのか、と救済の道を歩みはじめた釈迦は、その人生の最期に、「この人生は美しく、なんと感動なのだろう。皆さん、ありがとう」との意を述べた。

人間の次元(宿命)

チューリップが水仙になりたいと言っても、土台無理な話だ。

同じように、人間も一人ひとり異なる性質を持つ。これが「次元」の違いである。

これは、高次元・中次元・低次元に分けられる。

そしてこの次元は、宿命ともいうべき地上における自分の境遇を決定づける。

人間が意識して行うことが生活に与える影響は全体の10%以下しかない。

エネルギー(波動)=次元が高ければ、それに見合った出会いがあり、その逆もまたしかり。人がさまざまな出会いにより人生を形成していく中で重要なのは男性と女性の出会い。ここからすべてが始まる。


うさぎとライオンのカップルではまるで不自然なように、エネルギー(波動)=次元が違う男女が一緒になった場合、はじめは愛情でカバーできても時間の経過とともに、水と油のようになじめなくなってくる。

互いのエネルギー(波動)=次元のズレというのは、生活にいろいろな形で表れてくる。世の中の災難、不幸、苦痛は、元をたどれば男女の出会いの間違いに因るのだ。


人は、与えられたエネルギー(波動)=次元の制約の中で、それを宿命として人生を歩む。良い悪いではなく、それがその人にとって必要な道のりとなる。

しかし、どの次元であれ共通していることは、人間として生まれてきた以上は喜びと感謝をもって人生を謳歌できるということだ。


次元とは、その生命体の〝値打ち〟であり、「魂」となる。〝家柄〟という言葉にも例えられる。

次元(魂)の違いは同じ地上に生きていながら、人生の歩みを全く違うものとする。次元の高い生命体は、目に見えないものが見える(こだわりがなくなる)。

感謝と喜びにあふれ、出会い・仕事・家庭・健康・人間関係などあらゆる面で、その次元(魂)にふさわしい結果がもたらされる。

次元が低ければ、金銭問題や病気といった事象に振り回されやすい。たとえ他人よりも恵まれた暮らしをしていても不平不満が先にたち、努力して一生懸命に汗を流しても生活が向上しないのである。


チューリップが水仙には決してなれないように、この人生上において次元(魂)を変えることは不可能であり、与えられた次元(魂)の中で歩むほかなかった。

そう、「天」による救済が生まれるまでは──。

伝えきれなかったこと

釈迦、キリスト、空海といった過去に生きた救済者は、衆生救済の結論として、人間生命体における「真のチャクラ開華かいか」(真の人間開華)の存在を突きとめていた。

空海は唐の国で、恵果阿闍梨けいかあじゃりより真のチャクラの存在を受け継ぎ、日本へと持ち帰った。

最澄は人間開華(真のチャクラ開華)の経典の借用を依頼し、空海はこれを厳しい態度で断る。空海にとって教義の中でも秘奥の経典。その経典を安易に最澄であろうと貸し出すわけにはいかない。

それは「性」という領域にあり、知識・活字で理解するものではない。厳しい修行を通じ、身をもってしても到底たどりつくことができない宇宙の真理なる世界だ。空海はみずからの弟子にさえ、密教を伝えることの厳しさを崩すことはなかった。(これはその後、空海と最澄の決別の要因の一つである)

こうして、先人たちは「真のチャクラ開華」までには到達できず、その後、1200年の時を経て、ついに人間開華「真のチャクラ開華」させることが可能になったのだ。

これは、いよいよ有史以来の悲願であった人類救済が最終章に入ることを指すのだ。


男のよろこびエネルギー(波動)と女のよろこびエネルギー(波動)の融合、つまり、魂と魂の共鳴がさらなる新たなよろこびエネルギーを生み出す。そのエネルギーは炎となって魂を燃やし続ける。

その炎は消えることがなく、子ども・子孫へと継承されていく。

この炎が魂を進化させていき、次元を変えるのである。


求道者らがよく言う「空になる」とは、イメージからは決してたどり着けない世界であり、自らが救済されるためには、「空」を理解するのではなく、「空」を知ろうとするのではなく、自らの行をもって「空に成る」必要がある。

この真意は正しく伝わることなく、後世の人間たちにとって都合の良い大衆信仰へと作り替えられていった。このため、誰もが納得しやすくなっただけで、人類の進化からは遠ざかっていったのである。


没後約1200年たつ今なお人々の心を引きつけてやまない空海は、日本で初めて「人間は行いで救われるのだ」と、行動することの重要性を伝え広めた。

真言密教を日本にもたらした空海は当時、膨大な経典を暗記するために、虚空蔵求聞持法という修行を行い、記憶の能力を開発したと伝えられる。虚空蔵求聞持法は、「ナウボアキャシャギャラバヤオンアリキャマリボリソワカ」という言葉を100日間に100万回唱えるという修行法。すなわち1日に1万回となる。

空海は法則に沿った宇宙の言葉(真言)を口にし、行ずることで人は宇宙(大日如来)とつながることができると、三密を説いた。

三密とは、空海が修行の末に到達した衆生救済のための行を指す。手に契印を結び、口に真言を唱え、心を仏の境地におくことで、誰でも即身成仏ができることを、空海は真言密教として体系化したのである。

しかし、三密をもってしても衆生救済は成し遂げられていない。

たった一つの「大切なこと」に徹することができなかったがゆえに──。

空海の遺言

「私はこれから、弥勒菩薩の御前に参るであろう。そして56億7000万年後、必ず弥勒菩薩とともに蘇るであろう」

弥勒は釈迦の弟子であったが、死後、天上において修行を積み、釈迦の滅後、56億7000万年を過ぎると、再び人間界に蘇り、出家修行で悟りを開き、釈迦滅後の人々を救う、すなわち釈迦如来の再来と言われている。

空海はその弥勒菩薩につき従って、再び人間世界に来生すると遺告したのであった。


そして、空海は1200年もの年月、人類救済をかけた即身成仏に入る。


その後、今からおよそ100年前。大日如来の生まれ変わりとなる生命体がこの世に送り出される。

その人物こそ「如来行主にょらいぎょうしゅ」である。

現代に天の声を聞く人物

多くの仏教が顕教とされ、釈迦如来を中心としていたことに対し、真言密教は密教であり、大日如来を中心としている。それは宇宙の真理こそ、人間が生きていく上で中心にするべきである。

釈迦は生前、弟子たちに仏像を作ることを禁じていた。

「わたしをよりどころにしてはいけない。この命はどこからきたのか。生かされているのだ。わたしはない。自分はないのだ。混迷のとき、よりどころにするのは宇宙の真理であり、人間の内なる魂である」

こう説いた釈迦は、人を救いたいため6年間の苦行に入ったが、自分を捨てきれなかった。

「人を救いたい」では救えないことを悟ったとき、天の啓示を受け、今このままで喜べている(救われている)自分に目覚めたのだ。

釈迦は慈悲をもって、キリストは愛をもってこの法則を説き続けた。

しかし、それらは思想化され、人々はいつのまにか慈悲の仏、愛の神を作りあげ、信仰の対象にしてしまった。ついにはこれも限界となり、天が最後の救済者をこの世に送り出すに至る。


地上における、如来行主の永きにわたる行の末、釈迦、キリスト、空海らを地上に送り出した「天」が、この地上における最後の救済者として送り出した人物が存在する。この世のすべての人々の生と死を掌握し、天の意思に沿って人類救済を司るその人物は、ただ一人、「天」からのメッセージを受け、世に伝える役目を持つ。

空観法主くうかんほうしゅ法源ほうげん)。この人物こそが、空海の師である「恵果阿闍梨」。


「天」はすべての生命を生かし、動かし続ける本体。肉眼で確認することはできずとも、あらゆる生命を進化へと向かわせる壮大なエネルギー体である。


天による地上を進化させるための青写真は、人類が誕生するはるか前から定まっていた。あの釈迦もキリストも天声を受け、衆生救済に向け邁進したのである。人類救済の完結こそかなわなかったが、驚嘆すべきは、釈迦の時代において「いずれ来世に弥勒菩薩が再誕する」ことが予告されていたことだ。

そして、およそ1200年前、空海は「弥勒菩薩とともに蘇り、人類救済の仕上げを行う」と即身成仏に入った。空海は弥勒菩薩の誕生を待ち続けていたのだ。


真言密教の世界は曼荼羅に象徴される。金剛界曼荼羅は「知恵」、胎蔵界曼荼羅は「慈悲」とそれぞれ表現されることがあるが、その本質は「男と女」、「父と母」である。この二つを両界曼荼羅として一つに融合し、体系化したのは空海の師である「恵果」であり、衆生救済の具体的実践行にしたのが空海である。空海は当時の唐において真言密教の正当な継承者として恵果からそのすべてを伝授されていた。

すべての人よ、救済者たれ

2017年、最後の救済者・空観法主が全人類の持つごうを肩代わりする〝身代わり行〟としての法源行(弥勒菩薩)の過程を終え、弥勒如来として蘇り、天界の名だたる救済者たちも再臨する。地上の高次元生命体と魂結合し、最後の救済がスタートする。


そして6月19日、大日如来が地上に誕生したこの日、「奇跡」とも呼ぶべき出来事が起きていた。

空観法主(法源)の生みの親である如来行主はこの世に再臨(下生)し、如意輪菩薩の姿に変えて、地上で人類救済を実現するという。

そして、3月21日、「如来行主生命体魂」と「空海生命体魂」とが魂融合を果たし、衆生救済を行いたい一心の空観法主(法源)生命体を光明で照らし、これにより法源の生命体は再生を果たす。

この出来事こそ、釈迦の時代から予言されていた弥勒菩薩の修行の完成=弥勒如来降臨を意味していた。


それは空海の両界曼荼羅の完成を意味し、この地上で天界(大宇宙)曼荼羅として蘇り、太陽系の浄化と進化に大きく貢献するエネルギーとして地球から宇宙に発信していくことに他ならない。


同時にそれは、「天」がこの地上に降りて直接人類を救済するという、前代未聞の救済シーンの到来を告げている。


救済者たちが真に説きたかったのは「人間が進化する」ということだった。そして一人ひとりが救われる側ではなく、救済者として救う側に立ち、地上救済を仕上げること。

つまり「真の赤い糸」をわがものとし、「真のチャクラ」開華の道を歩むこと。

空海・親鸞・道元・日蓮といった多くの先人が衆生救済の志をもって尽力したが、釈迦の誕生からおよそ2500年が経過した現代においてもこれは成就しなかった。


しかしついに、人間にただひとつ存在する「観魂源かんこんげん」の謎が、万人に説き明かされる。

これをもって、地上は、天災人災を必要としない高次元社会へと進化を遂げることとなる。

いずれ死を迎え、人の世で決められた価値観から解き放たれたとき、問われるのはどれだけ魂を輝かせ進化できたかだけだ。


地上に救済者たちがあふれることは、この世を喜びで満たしていくことにつながる。

この日、釈迦やキリスト、空海、聖徳太子が使ったとされる神通力を授かり、自由自在に駆使できる自分へと進化を遂げられるとしたら、人生においてこれほど貴重で絶大なるターニングポイントはないだろう。

さあ、黄金の救済期はすぐそこだ

大日如来はこの世のすべての生きとし生けるものに光を照らす存在であり、法そのものである。大日如来は人間として存在していたわけではない。しかし、如来行主は大日如来・宇宙一体の修行を完成させ、一体聖魂として位置づいたのだ。


釈迦にせよキリストにせよ、空海にせよ、これら聖人を輩出した「天」の意図するところは、一体何だったのか。そして、なぜこの時期に最後の救済者を地上に送り出したのか。

その「天」というものを、己の魂の目で確かめてみたくはないか。

それは、全人類、いや全宇宙の行く末を縮図として目の当たりにできる無二のチャンスとなることは容易に想像がつくだろう。


釈迦が、キリストが、空海が本当に説きたかったことが分かる。

いや、分かるのではない。その自分に「成れる」のである。


なぜ、その家に生まれたのか。

なぜ、親子の出会いがあったのか。

なぜ、愛情があるだけでは「真の赤い糸」に出会えないのか。

なぜ、今の問題が起きているのか。

なぜ、自分は変わることができないのか。

なぜ、人は死ぬのか。

なぜ、すべては喜びなのか。


「天」が創った人間には、絶対に行き詰まりはない。

心臓が動いているかぎり、解決できないことは一切ない。

生きているかぎり、不可能なことは何一つとてないのである。

問題を作った原因は自分にあるのだから、それを解決する力も方法も自分が持ち合わせているのである。


かつて見上げた宇宙空間に思いを馳せた「天」に、ようやく自分を託せるときがきた。このチャンスに「天」のふところの大きさを目の当たりにすることになる。


宗派を問わず、教義を問わず。あらゆる団体組織を超えて、いま心臓が動いている人間ならば誰一人として対象となる、真の人間づくりの修行。万物の創造主「天」の意志に沿って行ずる繰り返し。

これを「超宗ちょうしゅう」と呼ぶ。

今年2017年。「超宗」による人類救済の幕が開く、その真実を知ることができる。


「超宗」で本当の自分になれる。

如意輪菩薩として再臨する如来行主の待つ高次元空間へ、わが身を預けてみることだ。

さあ、自分と人類の壮大なる夢の扉を、いざ開かん。

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